父を亡くして・・・


74日、午前635分、父、渡辺登が蜆塚の自宅で静かに息を引き取りました。享年92歳でした。私が息子として、主治医として最期を看取りました。父は内科医として昭和28年、祖父の医院を継承しました。まさに地域医療に粉骨砕身の人生だったと思います。毎日、午後になると、運転手「いっつぁん」が運転する緑色のフォルクスワーゲンで往診に出かました。当時は、病院も診療所も少なかったので、父は月曜日は「東方面」、火曜日は「南方面」、水曜日は「東方面」、木曜日は「北方面」、金曜日は「中心地」というようにうちから見て患者さんの家の方向別にわけて往診をしていました。東方面は、現在の磐田、掛川あたりまで、北は佐久間あたりまで、西は湖西ぐらい、南は遠州灘近くまで、かなり広い範囲に行っていたようです。幼稚園から帰宅して往診の車に乗っかるのが私にとっても毎日の楽しみでした。農家に往診に行くととうもろこしやスイカをもらい、金曜日には「まるたや」の喫茶店でチョコレートパフェを食べ車の中で寝てしまう、そんな毎日を過ごしていました。父は6時過ぎに往診から帰ると730分ごろまで夜の外来をやり、その後で家族で夕食でした。私が小学校に上がるころには、父は医師会の諸先生方と「浜松市医師会中央病院」を設立する準備していました。毎晩のように医師会の先生方が我が家に集まり、たばこの煙が充満する部屋で、遅くまで会議のような、打ち合わせのような話し会いをしておりました。医師会中央病院が佐鳴湖のほとりにできたのが、私が小学校の低学年のころでしたでしょうか、日本で初めてのオープンシステム病院として注目を集めたようで、父は、その活動を紹介するために、あちこちに講演に出かけていました。その後も、医師会の先生方との話し合いは続き、医師会中央病院は、現在の県西部浜松医療センターに発展したわけです。父も65を過ぎたあたりから、医師会の活動は、若い人に任せた方がいい、というようなことを言うようになりました。私は医学部を卒業するころで、少しは地域医療の実態がわかるようになっていました。父が誠意をもって招いてきた院長に公衆の面前で胸倉をつかまれて、オープンシステムは失敗だったと罵られたという話を人から聞いたことがありました。そんなことが原因であったかどうかわかりませんが、父は、医療センターのオープンシステムを積極的に利用する一医師会員という立場に徹し、毎週の診療協議会には欠かさず出席していましたが、医師会の活動からはフェードアウトしていったようでした。今、父を失ってあらためて父の足跡は大きかったと思います。しかし、何かを残すとか、名声を刻むとかいうことには全く興味がなかった父でしたら、葬儀でも世俗的な挨拶などはどなたにも依頼しませんでしたが、それでよかったと思いました。

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投稿者: 渡辺 亨

腫瘍内科医の第一人者と言われて久しい。一番いいがん治療を多くの人に届けるにはどうしたらいいのか。郷里浜松を拠点に、ひとり言なのか、ぼやきなのか、読んでますよと言われると肩に力が入るのでああそうですか、程度のごあいさつを。

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