腫瘍内科研修事始め


1982年12月1日は、国立がんセンター病院レジデントとして腫瘍内科研修を開始した日、今から27年前のことである。「忘れえぬ症例」というタイトルで小文を依頼されたので執筆したのだが、今日が記念日ということを思い出したので「腫瘍内科研修事始め」として特別寄稿する。なお、依頼された小文は、年明けに出版される予定。

 

 

「100人の患者を君が診ているとする。99人の患者から感謝されたとしても、もし、残りの一人の患者に十分な対応をせずクレームがつくようなら、99人に対する努力も評価されないことになる。患者の診療では絶対に例外を作ってはいけないのだ。」

「我々が行っている医療というのは基本的にはサービス業なのだから、いくら一生懸命やっていると主張しても、患者に満足されなかったら意味がないのだ。」

「腫瘍内科医は、まず、内科医であることをわすれてはいけないぞ。」

「外科医マイナス手術イコール内科ではないんだぞ。外科医と接するときは内科医のプライドを持ちなさい。」

これらは、恩師である阿部薫先生(現:国立がんセンター名誉総長)から直々に受けた注意である。このような指導を通じて私は、「がんの治療、とりわけ再発後の治療には限界がある。しかし、腫瘍内科医として出来ることは何かを考え、出来ることは精一杯やらなくてはならない。」という行動哲学を学んだ。ひとりひとりの患者と正面から向かい合い、EBMの3要素である「Clinical Expertise(臨床医として判断、知識、技術)」「Best Reserch Evidence(最善の臨床研究成績)」「Patient Preference(患者の意向をくみ取ること)」を習得した30年間の臨床経験の中から、とりわけ印象に残っているNKさんをご紹介したい。

NKさんは30才台の女性、私が国立がんセンター病院(現在の中央病院)のレジデントとして受け持った最初の患者である。5年前に乳癌手術、2年前に骨転移が多発し入退院を繰り返しながら、放射線照射、タモキシフェン、フルオキシメステロン、シクロフォスファミド、テガフール、メトトレキセート、ビンクリスチン、アドリアマイシンなど、当時利用できる治療薬を使用してきた。効果が認められた時期もあったが、病状は徐々に進行し、痛みが増強、座位すらとれない状況となった。同じ頃から呼吸困難も増強したので198211月初め、国立がんセンター病院に入院した。皮膚転移、多発骨転移、両側胸水、両側肺転移がある。私は 12月から担当となり、初めて病室を回診した日、NKさんは膝を抱えて、痛い、痛いと唸りながらベッドに臥床していた。当時の痛み止めは、塩酸モルヒネ粉末をワインとシロップに溶かした液体しかなかった。モルヒネを飲むと体が弱る、なるべくなら痛み止めは使わないように、というような間違った考えが医療者の間でも信じられていた時代である。NKさんは、昼も夜も、痛みに耐えながら、膝を抱えてじっとしていた。クリスマスの頃から、痛みに加えて膝から下がしびれる、手がつる、口の周りがしびれうまくことばをしゃべることができない、というような症状をしきりと訴えるようになった。次第に手もうまく動かなくなっていた。診療グループのカンファレンスで、脳転移、抗がん剤の末梢神経障害、脊髄転移、ビタミン不足など、様々な鑑別診断が挙ったが、阿部薫先生(当時は内分泌部長)から「カルシウム値はどうだ?」との指摘あり、測定すると低値であった。つまり「低カルシウム血症」、いわゆるテタニーの状態だったのである。骨転移を伴う乳がんでは、骨が破壊されカルシウムが溶け出し、血液中のカルシウムが高い値をしめす「高カルシウム血症」がしばしば見られる。それなのに、低カルシウム血症。理由がよくわからない。おそらく、ふつうの病院では、ここまでの鑑別はたどりつくだろう。そして、点滴の中身にカルシウムを追加して補正を試みることはするだろう。しかし、国立がんセンター病院の阿部チームでは、そこからの追求がすさまじかった。「なぜ、低カルシウム血症なのか?」、「造骨性骨転移(がんが骨に転移した結果、骨が溶けるのではなく、骨のカルシウム分がむしろ増加して骨が硬くなる転移形態、前立前癌の骨転移に多いが乳癌でもときに見られる)で、骨にカルシウムが取り込まれているのではないか。」、「いやいや、健常人の血清カルシウム値の調節には様々なホルモンやビタミンが関わっているからそう簡単には乱れないものだ。」、「じゃあ健常ではないとすれば、どこを調べればいいのか」、「ビタミンD、副甲状腺ホルモン、カルシトニン、血清アルブミンなどは調べる必要があるだろう」・・・。ということで、調べてみた結果、副甲状腺ホルモン(Parathyroid Hormone: PTH)が異常に低い、ということがわかった。PTHは、血清カルシウム値を上昇させる働きをもつホルモンだ。翌週のカンファレンスで、「低カルシウム血症の原因はPTH低値でした。」と発表したところ、「なぜPTHが低いのか?」、「いつから低くなったのか?」という話になり、「検査室に凍結保存してある過去の血清を使ってPTHを測定してみよう」ということになった。測定の結果、血清カルシウム値の低下と同じように、PTHが日を追って低下しているのがわかった。正常ではカルシウム値が低下すると、それを補正するためPTHは上昇する。どうやらPTHの分泌が悪いようだ。つまり、副甲状腺機能低下症ということになる。副甲状腺は、のどの甲状腺の裏側の四隅に張り付くようにある大豆ぐらいの大きさの内分泌腺だ。副甲状腺機能が低下する理由が、皆目検討がつかない。当時は、インターネットもない時代だったので、図書館司書のお姉さんに文献を検索してもらったが、そのような報告は全く見あたらなかった。結局、亡くなった後の病理解剖で、気管と甲状腺の間の隙間をはうように乳がん細胞が転移しており、副甲状腺が完全に破壊されていたのである。

NKさんが亡くなったのは年を越した1月中旬であった。クリスマスの頃から亡くなるまで、レジデント室(通称レジ小屋)に泊まり込み、日勤・準夜勤・深夜勤の連続勤務であったが、これは臨床医としては当然である。とりわけレジデントや研修医時代は、まだ、知識も経験も乏しく判断も甘い。そのため、少しでも長い時間、病室に出向き、患者の状態を誰よりもよく把握し、患者、家族との意思疎通を図り、看護師や、上司、同僚からも信頼されることが重要である。

最初は、痛み止めを拒んできたNKさんも、私の説明をよく理解してくれ、お正月の頃には、疼痛もコントロールできるようになった。しかし、次第に意識レベルは低下していった。亡くなる3日前、

「先生、私、夢を見ました。」

「どんな、夢ですか?」

「・・・・・・。どうもありがとう、先生。」

これが、NKさんとの会話らしい会話の最後であったように記憶している。翌週の病棟カンファレンスでNKさんの死亡報告をすると、阿部先生は、

「渡辺先生は、正月返上でよく頑張ったね。いい勉強をしたから、症例報告を書きなさい。JJCOJapanese Journal of Clinical Oncology)ならすぐ通るでしょう。」ということで、新たな試練が始まったのである1

病棟カンファレンスでのこのような徹底的な討論で、ほぼ、病態の全容が解明できた。このとき、これが、内科の真髄なのだな、と感じた。とかく、がんの末期状態の患者では、どんなことがおきてもおかしくない、というような対応で、病態生理が解明されないことが多いように思う。腫瘍内科医は、まず、内科医である、というのは、こういうことなのだ。また、徹底した討論は、診療グループ内での問題解決や意志決定プロセスを熟成させ、共有化するには不可欠である。私が診療グループをまとめる立場になったときも、十分な議論を通じて、がん患者の病態生理を解明しようという姿勢を重視した。レジデント教育にはたいへん有意義だと高い評価を得た。グループ診療、チーム医療を、実践するためには、常日頃からの、担当者間の意思疎通のための徹底的な討論の積み重ねが不可欠である。最近、労働条件がどうのこうの、拘束時間がああだこうだと、つべこべ言う若い医師が増えてきたが、自らの未熟さを省みて自己研鑽に励む、これが生涯学習というものだ。

今でも時々、JJCOの別刷り1を読み直してはNKさんのことを思い出す。私の腫瘍内科医としての臨床研鑽の第一歩と言える、まさに貴重な、忘れ得ぬ症例である。

 

1.Watanabe T, Adachi I, Kimura S, et al. A case of advanced breast cancer associated with hypocalcemia. Jpn J Clin Oncol 1983;13:441-8.

 

 

 

投稿者: 渡辺 亨

腫瘍内科医の第一人者と言われて久しい。一番いいがん治療を多くの人に届けるにはどうしたらいいのか。郷里浜松を拠点に、ひとり言なのか、ぼやきなのか、読んでますよと言われると肩に力が入るのでああそうですか、程度のごあいさつを。

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