イレッサの副作用は、まるで医師の怠慢、行政の傲慢であるかのような解説が読売新聞(10月30日)に載っていた。肺癌が再発し、余命半年と言われた男性がイレッサを内服した後、間質性肺炎で苦しんだ。しかし、イレッサが効いたのだろうか、その男性は8年後の現在も生存しているという。非小細肺癌が再発した患者としては、極めて稀な状況である。当時、マスコミは「薬害」というスタンスで取りえ上げようとしていた。新聞の解説では、テレビで厚生労働省の担当者が、この問題について「教訓はない」と言っていたのをみて、この患者は、訴訟に加わることを決意したという。まるで、医学界は、イレッサを夢の抗がん剤ともてはやし、まったく反省もないので、マスコミ、患者団体が、行動を起こした結果、安全策が講じられたと言わんばかりの論調だ。どうして、こんな浅薄な解説が医療情報部、高梨ゆき子記者によりしかも写真入りで掲載されているのだろうか。それは、医師が冷静に反論しないから、分かりやすく解説しないからなのか、それとも、マスコミが医師、行政などをたたけば、それだけ世間の支持を得られるという社会の風潮によるものだろうか。
私は、イレッサの開発から現在に至るまでの紆余曲折を冷静に見つめてきたが、これほど日本のがん医療界の努力と学習と反省が結実した事例はおそらく初めてではないかと思う。
イレッサはEGF受容体の働きを抑えるという働きがある。EGFとは、Epidermal Growth Factor(表皮成長因子)。1960年、Vanderbilt大学のStanley Cohen博士が、ネズミ唾液腺の抽出物を、生まれたばかりの子ネズミに注射すると、歯が早く生える、眼が早く開く、ということから発見した成長促進物質だ。Stanley Cohen博士は、1987年にノーベル医学・生理学賞を受賞した。当時、私はVanderbilt大学に留学しており、EGFの皮膚創傷治癒促進に関する研究に少しかかわっていたので、Stanley Cohen博士の家にも遊びに行ったことがある。EGF受容体が発見されたのが1985年頃、その後、EGF受容体に似ている物質が他に3種あり、EGRが、HER1となり、その他3種がHER2、HER3、HER4と呼ばれるようになった。EGF受容体の働きを抑えるイレッサの治験は、世界に先駆けて日本で実施された。西條先生、福岡先生ら、世界初を目指す熱きオンコロジストが試験組織の中心となり、治験を推進した。また、藤原先生が当時、医薬品機構にいて行政サイドで開発に尽力した。確かに、治験の段階で、数例、間質性肺炎様の症状が発症したが、そもそも肺に重い病を持つ肺癌患者が対象なので、その時点ではイレッサが原因なのか、それとも肺癌が原因なのか、分かりにくいということもあったのかもしれない。皮膚は扁平上皮なので、非小細胞肺癌のうち、イレッサは扁平上皮癌に効くと期待されたが、治験が進むにつれて、むしろ、腺癌の方が効くことが明らかになった。また、イレッサの効果は、従来の抗癌剤とはまるで異なり、効く人には1年2年と長い期間持続すると言うことも経験された。そして、2002年1月、期待とある種の興奮の中で厚生労働省に承認申請が提出された。通常、申請から承認までは1年以上はかかるものだが、イレッサは、なっなんと6カ月後の2002年7月に承認されたのだ。しかも、この6ヵ月間はイレッサの薬剤費だけは自費で負担すれば使える、という超特例的措置が取られたのには驚きだった。しかし、だ、この6ヶ月が、まるで野放し状態になったのであった。ここは、医療界は深く反省すべきである。状況はこうだ。1錠当たり8000円払えば、打つ手がないといわれた末期のがん患者に、しかも、肺癌だろうが、大腸癌だろうが、乳癌だろうが、胃癌だろうが、夢の薬が手に入るらしい、ということで、癌治療医だろうが、癌のことはあまりよくしらない医師だろうがイレッサを処方した。がん患者が知り合いの歯科医に頼んで処方してもらった、という噂もあった。このような状況で死亡者がたくさん出たということだが、イレッサの副作用の患者もいただろうが、末期の癌で死亡した患者も相当数いたのは確実である。新薬がでると、わらをもすがる気持ちで、それを求める、という気持ちは、誰にでもあるだろう。ただ、コントロール不能に陥った6カ月間で、今まで、「夢のくすり」ともてはやしていたマスコミも、がらりと態度を変え「薬害の犯人探し」というような論調になった。当時、国立がんセンター中央病院に在籍していた私はイレッサ開発の当事者ではなかったが、「副作用死はなぜ防げなかったか」を特集したNHKの報道対談番組に出演したことがあった。もともと肺に病気のある状況であること、コントロールできない状況で多数の患者に使われたこと、などが原因という話はしたような気がする。その後、治験成績のサブセット解析で、腺癌、女性、非喫煙者、アジア人でイレッサが効くことが明らかになった。また、男性、喫煙者、高齢者、で、間質性肺炎発症の可能性が高い、ということも明らかになったのだ。これを明らかにしたのは、誰だ? そう、医師らがこつこつとデータを積み重ね、観察し、あぶりだしたのではないだろうか? 高梨さん。また、記事には、「特定の遺伝子に変異があるタイプに今では使用する」のが一般化した、とあるが、EGF受容体遺伝子変異とイレッサあるいは類縁薬のタルセバの効果との関係が明らかになってきたのは、2004年以降のことであり、それも、国立がんセンターなどの医師の貢献が大きいのである。はじめから、どんな患者にどの治療が効くかということがわかっているわけではない、ということは、なにもイレッサだけの話ではない。クレイグ・ヘンダーソン博士は、最近の総論で「手術でも、ホルモン剤でも、化学療法でも、最初は、全患者を対象に行われていたが、10-20年の間に、次第に、どのような患者にとりわけ効果があるか、ということが分かってきて、だんだん、対象が絞られるようになるという歴史を繰り返している」と言っている。イレッサの場合にも、最初は、扁平上皮癌の患者に効くのではと予想されたのが、全く異なった患者に効果があることがわかり、それを遺伝子検査で事前に予測できるようになるまでには、数年の歳月と、患者の犠牲を費やしたものの、比較的短期間で確定できた。がん医療界の努力と学習と反省が確実に結実した事例として記憶に残るだろう。イレッサの間質性肺炎はその後の集計では5%程度に発症する副作用であることが明らかとなり、他の薬剤と比べて、とくに高い、ということはないし、また、イレッサの教訓から、肺毒性に対して目を向けるということが一般化したことが、最近の分子標的薬剤がスムーズに導入されている理由と考えてもよいだろう。しかし、読売新聞の解説で言っている、4週間の入院とか、全例登録などの外形的な対応は、ほとんど役に立っていないことを、高梨ゆき子は知らないのだ。
はじめまして。先生の講演を何度かお聞きしてる患者です。
先月のあけぼの会総会でもお姉さまのお話をありがとうございました。
このコラムを知ってから更新を楽しみにしています。
今回のイレッサの話。自分が癌患者になる前はさっと記事を読むだけで新しい薬には副作用があって怖いのだというくらいの読み方でした。
今はがん患者としてそれは本当なのかな?という気持ちをもって読んではいますが先生が書いてくださったような医者側の努力は読み取れません。
朝日新聞のワクチンについてが今話題になっていますが、一般の人は新聞に書いてあることをそのまま受け取ります。イレッサの記事も死の教訓というのはとてもインパクトがありますし、死者が出たことは医療者の責任としか読み取れません。
先生のこのコラムを読んでやっとイレッサについて理解できました。もっともっと多くの人に真実を知ってもらいたいです。