はじめに:組織の責任者にとって人心掌握はもっとも重要な責務の一つです。しかし、重要なだけになかなかうまくいきませんし、永久に完成の域に達しません。自分を棚にあげるわけにもいきませんから、自己の精神修養にはげみつつ、掌握できない心人(こころびと)に気づいてもらう事を願っています。
本文:神を畏れる、の「畏れる」は「恐れる」とも「怖れる」とも違います。畏れるとは、「自分よりはるかに力のあるものに対してすべてを委ねること」です。そして、その「はるかに力のあるもの」と自分がつながっていることによって、無上の安心と平安を感じ、優しい気持ちを持ち続けることができるのです。
人は、一人では生きてはいけませんし、家族、親戚、友人、職場の同僚、近所の人、サークルの仲間・・・などと、お互いに信頼し合える関係を築きながらこの世の人生を送ります。隣人とは、単に隣近所の人、ということではありません。道ばたにうずくまっている人、困っている人、友達にいじめられている人、仲間はずれにされている人、意地悪をされている人、そしてつらいおもいをしている人など、あなたのほうから積極的にかかわっていき、隣人として愛することができますか。
人は生まれながらにして、ねたんだり、いじめたり、仲間はずれにしたり、うそをついたり、困らせたり、いじわるしたりという、罪を多く持っています。ひとはだれしも不完全で、完全なひとはひとりとしていません。しかし、ひとりひとりが成長する、反省する、悔い改めることで、より完全に近づいていくことができます。身の回りで、自分と意見のあわない人、気に食わない人、自分より能力が劣ると感じる人、のろまでいらいらする人、など、意地悪をしたくなる人がいるかもしれません。でも、その人たちはみんなあなたの隣人なのですから、愛さなくてはいけません。どのようにしたら愛する事ができるかを考えなくてはなりません。隣人を愛することであなたも愛されるのです。
相手を責めるのではなく、自分が相手に何をしてあげる事ができるか、自分の行為、言動で相手がどれほど傷ついているのだろうか、相手の気持ちをおもんぱかり、人々のつらさをおもいやり、みんなの幸せをおもうこと、それが、よい人間として、私たち一人一人が目指すべき隣人愛なのです。やさしい気持ちを持つこと、考えてみましょう。
四旬節のこの時に心に染み入りました。
自分のためではなく誰かのために心を込めて何かをするのは、なかなか出来ていないのです。
先日の近くの教会のミサでの神父様のお話は、『自分の助けを必要とする人を待つのではなく、自分から見つけて手を差し伸べなさい』という内容でした。
今回の独り言に感謝します。
YELLくんのコメントは、よきサマリア人のたとえという聖書の話ですよね。無関心の世の中、大切な話だと思います。同時に、下手に注意されると逆切れされて、刃物でさされる、という世の中には、箴言に多くの「格言」が役立ちますね。
初めてコメントさせていただきます。
僕はがん治療に専門的に携わる薬剤師であり、クリスチャンです。これまで様々な学会等で何度も先生をお見かけしたり、お話を聞かせていただいていました(昨年の乳癌学会も行きました)。
偶然にも今日初めてこのサイトを訪れたところ、先生のこの記事を見つけ、共感いたしました。
他のどの病気よりも、一生懸命生きようとしているがん患者さんのために、この国のがん治療に変革をもたらしたいという志のもと、日々励んでおります。
これからも先生のお働きが守られますよう心からお祈りさせていただきます。