5月12日はナイチンゲールの誕生日を覚え、看護の日と言うことになっている。浜松医療センターにも看護の日を記念して廊下に展示があったが何を主張したいのかわからない。自分たちはこんなに一生懸命やっているのよ、認めてね、わかってね、という自己主張だろうか?。また、静岡市では人手不足訴え白衣姿の看護師が市内をデモ行進した、ということだが、これもばかげている。そもそも、ナイチンゲール誓詞という、看護師として心の底に保ち続けなければならぬ誓いが、浜松医療センターの展示にも含まれていない。いったいどういうことか?? むかし、むかし、その昔、国立がんセンターに猛烈な看護婦長がいて、必要以上に看護婦の独立・自立・主体性を強調していた。その猛烈看護婦長の薫陶をうけたミニチュア版の猛烈中沢看護婦が「これはおかしい。『心より医師を助け』は間違っている(文末のナイチンゲール誓詞(8)行目参照)看護婦は看護婦、医師の手足ではない!!」と言っていたのを思い出す。しかし、それは間違った考え方だ。看護師は医師を助け、医師は看護師を助ける。これが、チーム医療の基本となる相互に他職種を尊重する心だ。その根底には、他者を思いやる愛があり、その愛の基本には、キリストの教えの中核をなす「隣人を愛せよ」があるのだ。「厳かに神に誓わん」は、これもキリスト教の「神を畏れ」を意味している。それなのに、待遇改善・楽して高収入の労働要求、ライフを中心としたワーク・ライフバランスの主張、「ワーク・ライフ・スタディバランスの欠落」など、看護の日のお粗末な活動には、看護師の実践教育の貧しさが根底にあるように感じたので、ここにささやかな独り言を記す。
これを知らなきゃ看護師の資格なし! ナイチンゲール誓詞
(1)われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わん、(2)わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを。(3)われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち、(4)悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし。(5)われはわが力の限りわが任務の標準を高くせんことを努むべし。(6)わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、(7)わが知り得たる一家の内事のすべて、われは人に洩らさざるべし。(8)われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。