「がん」と診断された患者さんは「手術できますか?」と医師に尋ねます。乳がん、胃がん、大腸がん、肺がん、卵巣がんなどは、かたまりを作って大きくなっていくので「固形がん」と呼ばれますが、これらのがんでは、「手術できること」イコール「治ること」と考えている医師も患者さんも多いです。確かに小さいうちにがんをみつけて手術でとる、つまり「早期発見、早期外科手術」は固形がん治療の重要な努力目標です。検診を受けましょうというのも、このためです。では、血液のがんである白血病は手術をするでしょうか? 答えは「いいえ」です。固形がんのように体のどこか一か所にがん細胞が固まっているわけではありませんから、手術でとるということ自体、全く意味がありません。急性骨髄性白血病や、こどもの急性リンパ性白血病などは、抗がん剤で完全に治すことができます。慢性骨髄性白血病は分子標的薬剤「イマチニブ」で治癒させることができます。その他、悪性リンパ腫、若い男性の睾丸にできる胚細胞腫(はいさいぼうしゅ)、お産の後にまれに子宮に発症する絨毛(じゅうもう)がんなども薬による治療で完全治癒が期待できるのです。では、最初に述べた固形がんでは薬によってはどのぐらい効果があるものでしょうか。肺がんの約2割を占める小細胞肺がんでは、他の臓器に転移がない場合、3割近くの患者さんは薬と放射線で治癒可能です。卵巣がんはお腹全体にがんが拡がって腹水がたまる状態で見つかることが多いのですが、それでも手術と薬で半分ぐらいの患者さんで治癒可能です。乳がんでも、がんの性格によっては、抗がん剤、分子標的薬剤「トラスツズマブ」と放射線で、手術しなくても治癒できるようになりました。他に、食道がんでも、手術しないで抗がん剤と放射線治療で治ってしまう場合が増えてきました。このように、がんをくすりで治す時代が来たのです。
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よい腫瘍内科医であるための12カ条
① しっかりした志をもつこと
② 患者を愛すること
③ 科学を愛すること
④ 明るいこと
⑤ 聴くことができること
⑥ 外科医に負けない精神力をもつこと
⑦ 国際舞台で活躍できる素養をもつこと
⑧ 体力があること
⑨ つきあいがいいこと
⑩ すなおであること
⑪ 労をいとわないこと
⑫ ミッションと責任を自覚すること
先日、卒後2年目の研修医師が、浜松オンコロジーセンターに見学にきました。腫瘍内科医になりたい、という志は素晴らしく、是非、大きく伸びてもらいたいと思います。12カ条の教えを彼に送りました。しっかりやるようにと。
混乱の時代に
乳癌の患者さんで、転移があってホルモン療法が効く可能性がある場合、まず、効きそうなホルモン剤を選んで治療を行い、効けばなるべく長い期間続けていく。効かなくなったら次のホルモン剤に変えてまたおなじようにじっくりとホルモン剤を続ける。このようにして数種類のホルモン剤で治療を行い、とくに副作用もなく、良い状態をつづけていくことがQOLの維持ということになる。トラスツズマブが効きそうな場合にはトラスツズマブだけでいいか、トラスツズマブに抗がん剤を加えた方がいいか、という比較試験を日本で行われた。その結果、抗がん剤を加えた方がいい、という結果になったので、最初はまず抗がん剤(タキサンやナベルビン)をくわえるのがよい。よい、ということは、つまり、生存期間がのびる。生存期間がのびる、そして、これが、ずーっと続けば、治る、ということになる。ホルモン療法の場合、同様の検討、すなわち、ホルモン剤と抗がん剤を併用した場合、抗がん剤だけを先にやった場合、ホルモン剤だけを先にやった場合、この3種類に治療を比較した臨床試験が1980年代にたくさん行われた。いずれの試験でも、抗がん剤治療を早くからやっても生存期間には変わりはなかった。それだったら、体にやさしいホルモン剤から始めて行きましょう、という考え方が定着し、それが、ホルトバ爺のアルゴリズムになっているのだ。そうじゃな、ひろ爺。なのに、この原則を全く無視して、ホルモン剤が効きそうなのに抗がん剤の治療を先行させて、その結果、生涯、ホルモン剤を使用しないで、患者さんの状態が悪くなってしまって、ホルモン剤が使いにくい状態になってしまった、という話や、転移が小さい、少ない状態、これをオリゴ転移と言うのだが、そのような状況では、治癒を目指して、ホルモン剤よりも抗がん剤を、僕は使用します、という、頓珍漢なことを言っている子もいる。ガイドラインには、そう書いてあるけど、うちの病院では、違うことをやりますとか、おかしなことを平気でいっている子もいたり・・・。そう信じるのなら、それを検証するような臨床試験を最後までやり遂げて、ガイドラインの記載が書きかえられるようになったら、オタクの病院で違うことやっていいから、ねっ、それまでは、なぜ、ホルトバ爺なのか、ということをよく考えて、なぜ、標準治療として、認識されているのか、をよく考えてほしい。仙石のバカがわけわかんないことやっていて民主党がふらふらで、北朝鮮もおかしなことをやって、ただでさえ混乱している時代なのに、これ以上、混乱させないように頼みますよ、馬場先生、お願いします。
朝日新聞連載 1回目「四面外科で意見が合わず」
郷里の浜松で腫瘍内科診療所「浜松オンコロジーセンター」を開設したのが2003年の5月。仕事や子育てをしながら外来に通って抗癌剤治療をうける患者さん、セカンドオピニオンを求めて遠方からやってくる患者さん、ご自宅でがんの末期を過される患者さんといったがん診療や、がん検診、がん予防の相談と、近隣の方々の一般内科診療を行なっている。
セカンドオピニオンを聞きに来る患者さんの治療内容、地域で開催される症例検討会、カンファレンス、地方会、学会などで提示される、がん治療の実態を見るにつけ、今まで私が、国立がんセンターなどで学び、経験して得たものとは、あまりにかなりかけ離れたがん医療の実態にふれ、正解はどこにあるのか、ひょっとしたら、自分が間違っているのか、わからなくなってしまうこともある。大腸癌が肝臓や肺に転移しても、手術すれば治りますよ、と言って無茶な手術をしたり、乳癌の患者に抗がん剤は副作用が強いからやめときましょうと、やたら弱腰の外科医と、なかなか意見が合わす、これではまるで「四面楚歌」ならぬ「四面外科」だと思った。
我が診療所は、祖父、父、私と三代にわたり世襲されている。診療所でできることには、限界があるのも事実だし、診療所でなければできないこともある。祖父は診療所の運営以外に、聖隷病院の開設に尽力し、浜松市の中心部から三方原まで、大八車に結核患者を乗せて運んだという。父は、浜松市医師会中央病院や県西部浜松医療センターの設立など、浜松地区の医療体制を整備するような活動に関わってきた。私も、その血を受け継いでいるのか、専門とするがん医療を、日々の診療という目線と、もうひとつ、どうしたら、もっと良いがん診療ができるだろうかという目線で、NPO法人「がん情報局」を設立し、情報提供活動を行い、もっとよいがん医療体制をつくることができないかと、毎日、考えて続けている。
一昨年、92才の父を看取り、今年、5歳上の姉を看取った。父は口腔がん、姉は乳がんで、私の専門とするがんでこの世を去った。主治医として、また、家族として、かかわったのであるが、がん患者の苦しみ、家族の苦しみも味わった。同時に、もっとよいがん医療をつくれないものだろうか、という熱意はさらに強くなった。縁あって、朝日新聞に、コラムを連載することになった。腫瘍内科医のひとりごとを、皆さんに聞いてもらうことが出来るチャンスを活用して、ちょっと毒のあるひとりごとだけど聞いて頂きたい。そして、ご意見、提言、反論など、お寄せいただければ、受け止めていきたいと思う。
確かにオープンシステムだね
「オンコロジーセンターってオープンシステムなんですね」と、神谷智子看護師に言われ、なるほどね、と思いました。確かに、外来には内分泌・糖尿病・代謝内科系で鈴木究子先生、乳腺外科で徳永祐二先生が来てくれて、ハイレベルの診療を引っ張ってくれているし、佐藤政広先生も癌研での厳しい研修の間に腫瘍内科学の実践を勉強しに来ています。MMGなどの画像診断は吉田雅行先生が定期的に来てくれ「吉田学校」を開催、技師、医師、看護師、薬剤師などを対象に治療方針にせまる画像診断の勉強会をやってくれています。さらに、患者支援活動「ガーベラ」では医療センターの看護師の方々がリンパ浮腫治療について実践講座を開催し、その後のフォローアップに来ててくれたりと、院外からの専門家が存分に活躍してくれています。一方、私は父の作った浜松医療センターのオープンシステムを活用し、院外医師として可能な限り出向いて回診や病理、術前、術後カンファレンスなどに参画して診療、教育、研修に携わっています。そういった意味では、相互の人的交流を基盤とした顔も頭の中味も見える病診連携と言えるんじゃあないかと思います。あちこちで声高らかに謳われている病診連携ですが、あちこちで全然うまくいっていません。その理由は、医師の手前勝手な都合で病診連携をこずるく利用してやろう、という魂胆だからではないでしょうか。オンコロジーセンターがオープンシステムっていう風に意識したことはありませんでしたが、言われてみれば、なるほど、OPEN TO EVERYBODYです。何ごともOPENに、というように、第三者の目、耳が常に近くにある状況は、風通しがいい、ともいわれるように、客観性を恒常的に維持することができ、とても好ましい状況であると思います。医療には正解が二つ以上あり、なぜ私が正解Aを選んで、なぜあなたが正解Bを選んだか、というプロセスが説明できるのならば、お互いの選択を尊重する、というという場面も多いのです。しかし、架空の例をあげるならば、佐々木先生は抗がん剤が必要というけど、佐伯先生はホルモン剤で良いという場合、これは、どちらも正解ということもあるのでしょうが、周囲からみると意見がいつも違っていて僕たちはどちらについていいかわからない、ということになる。これは、顔も見えない、頭の中身も見えていない、というのが理由なのではないでしょうか。意見交換の場は、もっともっとあればいい。懇親会だって、飲み会だって、どんどんやればよい。懇親会に出ない陰気な薬剤師とか、何よりも家庭第一主義、会議も上の空で遅れて来たかと思ったら終わるか終わらないうちにそそくさと荷物もまとめて帰宅する乳腺外科医、自分で勉強するとか言ってカンファレンスにも全く参加しない偏屈な腫瘍内科医など、行動パターンをオープンシステムにバージョンアップしたらいかがだろうか、明るい未来が開けるぞ!
医療はそもそも地域で行うもの
地域医療ということばがある。その反対語は何かと考えてみても思い浮かばない。がんを地域で考えるシンポジウムが先週、日曜日に大学祭の一部として開催された。検診などの予防活動は町内会組織を利用して普及させるというのも一案である。中日新聞が取材に来たようだが、私の主張は全く無視したので、中日新聞の購読は今月いっぱいで終了にした。
鶴の一声より蛙の合唱
11月19日に開催したメディアフォーラムでは、「ガイドラインは社会を変えられるか」というテーマで多数のメディアの方々にお集まり頂き、活発な討論が展開されました。当初、「ガイドラインは行政を変えられるか」というテーマでどうか、ということで準備を開始したのですが、向井博文先生から「もっと大事なことをとりあげましょう、行政なんて、どうせ誰も来やしないし、来たって2-3年で担当者が変更になってしまうでしょ。肝心なことは、どうしたらよいがん医療を患者に提供するかということだから」との提案があり、そのように変えました。私としては、ぼやき漫才のように「責任者出てこーい」(ふる~い) という感じで、行政の不作為、無作為、非作為、無能力を指摘してどうにかならぬか、ということを考えたのですが、社会派向井先生の方針の方が建設的だねって感じ。10年以上前から、メディアセミナーとかでお世話になってきた高石憙さんには、事前の準備から当日のセッティング、さらに直前にお願いして司会までして頂き感謝しております。フォーラムでは、その後の懇親会も含めて、いろいろな話がでて、とても楽しかったし、中身も濃かったように思います。重鎮の伊藤正浩さん、大野善三さんもいろいろと質問してくださり、楽しかった!と言ってくれました。また、フォーラムでは、鶴(赤)の一声で開催されるようになった委員会がまた、別の鶴(茶色)の一声で突如中止になってしまった話とか、ハーセプチンが術後治療としての使用が承認されたのは2008年なのに、2005年にASCOで劇的な効果が発表されてから2007年までの間に日本でも「適正使用」が一気に広がった話とか、いろいろと興味深い話が掘り起こされた。ハーセプチンの話は、薬剤の力量もあるが、全国で心ある専門家(注:私もここに入る)が地道に審査側、行政側に説明、説得したことが功を奏したと思いますね。また、ある協議会で垣添さんが、鶴(腹黒)の一声だか、わがままな患者団体の自己主張だかで、突如委員長が解任されそう、というような、ばかばかしい、次元の低い話も聞きましたが、興味深か~い。今回のメディアフォーラムで学んだことは、「一時的に力をもった為政者の鶴の一声による活動は一時的なガス抜きの効果すらもたらさない。むしろ、蛙の合唱のように、良識のある人々がそれぞれの軸足をきちんと保ち、責任ある発言、行動をすることが、正しく社会を変える原動力になる、ということです。ということで、このメディアフォーラムは、「蛙の歌がきこえてくるよ、げっげっげっげっげろげろげろげろぱっぱっぱっ」を続けてい行こうと思います。ピンクかえるリボンも考えたい。
言葉づかいに気をつけるよう努力する
2-3年前のASCOで発表者が「数名の患者が治療無効であった」という意味で”several patients failed the treatment”と言った途端、会場から “Patients didn’t fail! The treatment failed!!” (患者は失敗していないわ!治療が失敗したのよ!!)と、アドボカシーピープル(患者団体)と思しき女性が金切り声をあげた。発表者はすかさず、” Oh I’m sorry, you are wright. I mean the treatment DID not work.”(あっ、すみません。あなたの言うとおり、治療が効かない、ということです)と言いなおした。同様の指摘はその後も、司会者がしたり、何回か聞いた。気になったのでの英次郎で調べたら fail treatment は、(患者などが)治療に失敗する、と載っていた。言葉づかいに気をつけなと言われた前回の話の後、言葉づかい反省週間として、朝のジョギングの時にも「ことばづかい、ことばづかい」と言って走っている。「薬剤を投与する」という表現も当たり前に使っているが、以前、「動物園のクマに餌を投げ与えるみたいでおかしい」という意見を聞いたことがある。それなので、なるべく「投与」は使わない。10月の癌治療学会で一緒に講演したSJ先生が「最近では治療がかなり進歩して、再発しても5年とか、下手すると10年以上生存する場合もあり・・・」という、スキあり発言をしていた。こういうのは意外と本人は気づかないものなのだが、時々は言葉づかい反省週間を設定するのが良いだろう。
セカンドオピニオンのクレーム
今まで、セカンドオピニオンについて、後になってけしからん、とクレームがついたことが二回あった。二回とも本人からではなくって近い家族から。もっと言うと患者と一心同体のような姉妹からだ。いずれもセカンドオピニオンにはその姉妹は同席せず、しかも患者一人での受診である。一人は「高すぎる。何も診療していない、薬の一つもだしていないのに。」というもの。セカンドオピニオンはそういうものだし、お見当違いな気がする。もう一人は「言葉づかいに気をつけろ、本人がおちこんでいるじゃないか」というもの。確かに患者の状況は厳しいのだが、治療の目標はきちんと理解してもらわなればならないし、できることと出来ないことがあるのだから、それはきちんと話さなくてはいけないと思っている。その患者は帰る時には納得した様子ではあったが家に帰って妹といろいろと話したのだろう。本人から電話が来るのならわかるが家族からというと、場合によっては伝言ゲームのようになってしまう。クレ―ムがついたら、以降、そういうことがないように全力を尽くさなくてはいけないのは確かだ。阿部薫先生からも「例外を作るな!」と厳しく指導を受けた。もうひとつの解決策としては、かならず家族、友人など患者と近い立場の人も同席してもらうこと。何人でもいいので同席して、その場で、患者―医師間の微妙なやり取りを感じてほしいと思う。診察室での会話はとても繊細だし、言った、言わないという話でもめるような状況でもない。家族を愛する気持ちはだれも同じだし、がんが転移しても希望をもって中腰で臨む、ということは大切なことである。中腰という微妙な感覚もその場にいると意外とすんなり伝わるものである。
医療者の沈黙
イレッサの副作用は、まるで医師の怠慢、行政の傲慢であるかのような解説が読売新聞(10月30日)に載っていた。肺癌が再発し、余命半年と言われた男性がイレッサを内服した後、間質性肺炎で苦しんだ。しかし、イレッサが効いたのだろうか、その男性は8年後の現在も生存しているという。非小細肺癌が再発した患者としては、極めて稀な状況である。当時、マスコミは「薬害」というスタンスで取りえ上げようとしていた。新聞の解説では、テレビで厚生労働省の担当者が、この問題について「教訓はない」と言っていたのをみて、この患者は、訴訟に加わることを決意したという。まるで、医学界は、イレッサを夢の抗がん剤ともてはやし、まったく反省もないので、マスコミ、患者団体が、行動を起こした結果、安全策が講じられたと言わんばかりの論調だ。どうして、こんな浅薄な解説が医療情報部、高梨ゆき子記者によりしかも写真入りで掲載されているのだろうか。それは、医師が冷静に反論しないから、分かりやすく解説しないからなのか、それとも、マスコミが医師、行政などをたたけば、それだけ世間の支持を得られるという社会の風潮によるものだろうか。
私は、イレッサの開発から現在に至るまでの紆余曲折を冷静に見つめてきたが、これほど日本のがん医療界の努力と学習と反省が結実した事例はおそらく初めてではないかと思う。
イレッサはEGF受容体の働きを抑えるという働きがある。EGFとは、Epidermal Growth Factor(表皮成長因子)。1960年、Vanderbilt大学のStanley Cohen博士が、ネズミ唾液腺の抽出物を、生まれたばかりの子ネズミに注射すると、歯が早く生える、眼が早く開く、ということから発見した成長促進物質だ。Stanley Cohen博士は、1987年にノーベル医学・生理学賞を受賞した。当時、私はVanderbilt大学に留学しており、EGFの皮膚創傷治癒促進に関する研究に少しかかわっていたので、Stanley Cohen博士の家にも遊びに行ったことがある。EGF受容体が発見されたのが1985年頃、その後、EGF受容体に似ている物質が他に3種あり、EGRが、HER1となり、その他3種がHER2、HER3、HER4と呼ばれるようになった。EGF受容体の働きを抑えるイレッサの治験は、世界に先駆けて日本で実施された。西條先生、福岡先生ら、世界初を目指す熱きオンコロジストが試験組織の中心となり、治験を推進した。また、藤原先生が当時、医薬品機構にいて行政サイドで開発に尽力した。確かに、治験の段階で、数例、間質性肺炎様の症状が発症したが、そもそも肺に重い病を持つ肺癌患者が対象なので、その時点ではイレッサが原因なのか、それとも肺癌が原因なのか、分かりにくいということもあったのかもしれない。皮膚は扁平上皮なので、非小細胞肺癌のうち、イレッサは扁平上皮癌に効くと期待されたが、治験が進むにつれて、むしろ、腺癌の方が効くことが明らかになった。また、イレッサの効果は、従来の抗癌剤とはまるで異なり、効く人には1年2年と長い期間持続すると言うことも経験された。そして、2002年1月、期待とある種の興奮の中で厚生労働省に承認申請が提出された。通常、申請から承認までは1年以上はかかるものだが、イレッサは、なっなんと6カ月後の2002年7月に承認されたのだ。しかも、この6ヵ月間はイレッサの薬剤費だけは自費で負担すれば使える、という超特例的措置が取られたのには驚きだった。しかし、だ、この6ヶ月が、まるで野放し状態になったのであった。ここは、医療界は深く反省すべきである。状況はこうだ。1錠当たり8000円払えば、打つ手がないといわれた末期のがん患者に、しかも、肺癌だろうが、大腸癌だろうが、乳癌だろうが、胃癌だろうが、夢の薬が手に入るらしい、ということで、癌治療医だろうが、癌のことはあまりよくしらない医師だろうがイレッサを処方した。がん患者が知り合いの歯科医に頼んで処方してもらった、という噂もあった。このような状況で死亡者がたくさん出たということだが、イレッサの副作用の患者もいただろうが、末期の癌で死亡した患者も相当数いたのは確実である。新薬がでると、わらをもすがる気持ちで、それを求める、という気持ちは、誰にでもあるだろう。ただ、コントロール不能に陥った6カ月間で、今まで、「夢のくすり」ともてはやしていたマスコミも、がらりと態度を変え「薬害の犯人探し」というような論調になった。当時、国立がんセンター中央病院に在籍していた私はイレッサ開発の当事者ではなかったが、「副作用死はなぜ防げなかったか」を特集したNHKの報道対談番組に出演したことがあった。もともと肺に病気のある状況であること、コントロールできない状況で多数の患者に使われたこと、などが原因という話はしたような気がする。その後、治験成績のサブセット解析で、腺癌、女性、非喫煙者、アジア人でイレッサが効くことが明らかになった。また、男性、喫煙者、高齢者、で、間質性肺炎発症の可能性が高い、ということも明らかになったのだ。これを明らかにしたのは、誰だ? そう、医師らがこつこつとデータを積み重ね、観察し、あぶりだしたのではないだろうか? 高梨さん。また、記事には、「特定の遺伝子に変異があるタイプに今では使用する」のが一般化した、とあるが、EGF受容体遺伝子変異とイレッサあるいは類縁薬のタルセバの効果との関係が明らかになってきたのは、2004年以降のことであり、それも、国立がんセンターなどの医師の貢献が大きいのである。はじめから、どんな患者にどの治療が効くかということがわかっているわけではない、ということは、なにもイレッサだけの話ではない。クレイグ・ヘンダーソン博士は、最近の総論で「手術でも、ホルモン剤でも、化学療法でも、最初は、全患者を対象に行われていたが、10-20年の間に、次第に、どのような患者にとりわけ効果があるか、ということが分かってきて、だんだん、対象が絞られるようになるという歴史を繰り返している」と言っている。イレッサの場合にも、最初は、扁平上皮癌の患者に効くのではと予想されたのが、全く異なった患者に効果があることがわかり、それを遺伝子検査で事前に予測できるようになるまでには、数年の歳月と、患者の犠牲を費やしたものの、比較的短期間で確定できた。がん医療界の努力と学習と反省が確実に結実した事例として記憶に残るだろう。イレッサの間質性肺炎はその後の集計では5%程度に発症する副作用であることが明らかとなり、他の薬剤と比べて、とくに高い、ということはないし、また、イレッサの教訓から、肺毒性に対して目を向けるということが一般化したことが、最近の分子標的薬剤がスムーズに導入されている理由と考えてもよいだろう。しかし、読売新聞の解説で言っている、4週間の入院とか、全例登録などの外形的な対応は、ほとんど役に立っていないことを、高梨ゆき子は知らないのだ。