月: 2007年6月
治験
ASCOは楽し
5月31日毎日新聞記事コピペ
◇人員不足が深刻--地域格差解消狙う
「これが実現したら素晴らしい、というものができたと思う」
30日の協議会では、複数の委員から計画案を評価する意見が出た。委員は患者代表や有識者、医師ら18人。時には深夜にも及ぶ計5回の会合で、立場の違いを超えた熱い議論を交わしてきた。しかし、がん対策基本法成立に尽力した国会議員からは「かえって地域格差が広がるのでは」と危惧(きぐ)する声も上がる。計画の実施には、都道府県が地域の実情に合わせ、がん対策推進計画を作る。しかし、医師をはじめ医療スタッフの不足が深刻化する中、スタッフをそろえることさえ難しい自治体が出ることが予想され「医療格差」解消は容易でない。協議会では「計画を内容のあるものにするには予算措置が必要だ」との声も出た。
「情報格差」の解消にはどうか。計画には、3年以内に「2次医療圏」と呼ばれる全国の358地域すべてに、患者らの疑問や不安に答える相談支援センターを整備することも盛り込んだ。だが、実情は厳しい。
各地のがん拠点病院には昨年2月から、先行して相談支援センターの設置を進めている。しかし、がん患者への情報提供に取り組む「キャンサーネットジャパン」の川上祥子・広報担当理事は「各地の相談員が同じ知識を持っているわけではなく、情報をかみくだいて説明できる人が不足している」と指摘する。
「基本計画が絵に描いた餅になりかねない」と不安視する委員もいる。患者代表ら委員5人は、第3回会合で独自の対案を提出。誰がいつまでに何をするかを明示した行程表を示し、基本計画に取り込むよう求めたが、実現しなかった。厚生労働省は「進ちょく状況を協議会に報告する」と説明するが、実施状況の評価がどこまで行われるかは不透明だ。
◇遅れ目立つ治療体制
計画は重点課題の一つに、化学療法(抗がん剤治療)と放射線療法の充実を掲げた。日本のがん医療は手術が中心で、他の治療法は欧米に比べて遅れが目立つからだ。
国立がんセンターで約20年間、抗がん剤治療にあたった渡辺亨医師は05年、浜松市に全国初の抗がん剤治療専門クリニック「浜松オンコロジーセンター」を開設した。患者が各地から毎週上京、長時間待って治療を受ける状況に疑問を感じたためで「気軽に立ち寄れるがん診療所があってもいい」との思いからだ。
日本では、抗がん剤治療が専門の腫瘍(しゅよう)内科医による治療は、大病院でしか受けられない。日本臨床腫瘍学会は05年度、抗がん剤に関する十分な知識を持つ「がん薬物療法専門医」の認定を始めたが、今春でようやく126人。米国には同様の専門医が1万人近くいる。
渡辺医師は「腫瘍内科医は増えてきたが、育成には時間と地道な努力が必要。基本計画ができたことは評価するが、青写真でしかない。私のセンターが、腫瘍内科を目指す若手医師のモデルの一つになれば」と話す。
放射線治療の体制整備も遅れている。米国で放射線治療を受けるがん患者は66%に達するが、日本は25%。日本放射線腫瘍学会の認定を受けた医師は500人で、米国の10分の1だ。正確な治療を担保する理工学の専門家が極端に少なく、過剰照射などのトラブルも起きている。
中川恵一・東京大放射線科准教授は「放射線治療のメリットが、患者にも医師にも理解されていない。放射線治療が最善なのに、医師から勧められないまま手術を受けている患者は多いとみられる。切らずに治す選択肢を知ってもらうことから始めなければならない」と話す。
◇「個人情報保護」患者登録の壁に
科学的根拠のあるがん対策を進める基礎データとなるのが、患者一人一人の病名や生存期間、治療法などを記録する「がん登録」。計画でも重点課題の一つとされた。
しかし、都道府県内の全患者を登録する「地域がん登録」、医療機関内で実施する「院内がん登録」とも一部の自治体や病院にとどまり、全国の発症率は推計値でしか出せないのが実情。データの取り方もバラバラだ。
また、登録作業をするため、米国には約4000人のがん登録士がいるが、日本には該当する資格すらなく、国立がんセンターの研修を受けた人が約800人いるにすぎない。
厚労省は04年に「がん登録は個人情報保護法の適用外で、患者の同意は不要」との通知を出したが、個人情報の取り扱いに対する国民の不安は大きく、全患者の協力を得るための妙策も見えない。計画では「院内がん登録を実施している医療機関を増加させる」との抽象的な目標しか掲げられなかった。
国立がんセンターがん情報・統計部の祖父江友孝部長は「情報の提出が法律で医療機関側に義務付けられていないことが最大の問題。すべての医療機関から確実にデータを集め、正確な統計を出すには、法制化が必要だ」と訴える。
==============
◆がん対策推進基本計画の骨子◆
■全体目標
▽10年以内に死亡率の20%減少
▽患者・家族の苦痛軽減と療養生活の質の向上
■重点課題と主な目標
▽放射線療法や化学療法の推進=5年以内に全拠点病院で実施体制を整備
▽治療の初期段階からの緩和ケアの実施=10年以内に、がん治療に携わる全医師が緩和ケア の基本知識を習得
▽がん登録の推進=5年以内に全拠点病院の担当者が研修を受講
■その他の主な施策と個別目標
▽在宅医療を選択できる患者数の増加
▽3年以内に全2次医療圏で相談支援センターを整備
▽5年以内に乳がんや大腸がんなどの検診受診率を50%以上にアップ
毎日新聞 2007年5月31日 東京朝刊
腫瘍内科 -この10年-
国立がんセンター中央病院で乳がんの内科的治療に取り組み、少し軌道に乗り始めた頃のこと、「もっとこの領域で熱中する若い医師を増やさなくては」と考えた。しかし学会で、ある先生に「先生は何で外科の領域の乳がん治療に、物好きにも取り組んで見えるのでしょうか。乳がんのことは我々に任せ、先生には他にやることがあるのではないでしょうか?」と、助言とも、皮肉ともとれるようなコメントを頂いたことがあり、内科で乳がん?乳がんは外科の病気でしょ?というレスポンスが世間では一般的であった。
レジデントとして応募してきた若者の中に、「腫瘍内科で乳がんをやりたい」という男がいたので一生懸命に指導した。しかし、ある日突然、肺がんをやりたいと言い出した。よく聞くと「内科で乳がんやっていてもどこの病院にも就職できない。その点、肺がんなら、多くの病院でやっているから、就職口もたくさんある。」つまり、安定した将来を求めたいということだった。「乳がんの薬物療法は間口が広く、奥が深くて面白いし、腫瘍内科医の腕の見せ所が沢山ある。これからは、絶対乳がんのわかる内科医が必要とされる時代がくる。今は、でこぼこのあぜ道だが、一緒にこの道を進もうではないか。」と説得したが、「僕は、舗装された高速道路をかっこよく走っていきたいです」と、肺がんの道を進んでいった。実は、はじめから肺がんをやりたかったが、レジデントの定員がうまっていたので乳がん希望として採用された、ということがあとでわかった。その後の彼の消息は把握していない。
あの頃は、我が国の「腫瘍内科」は黎明期にあったように思う。国立がんセンター中央病院レジデントマニュアルを作ろうと、1995年の春、当時の総長、阿部薫先生に後押ししてもらい、売れるかどうかもわからぬ企画を医学書院に持ち込んだ。現役のレジデント諸君が執筆した拙い原稿を、勝俣範之、小野裕之、山本信之の「みつゆきくん」とよばれた3名のチーフレジデントといっしょに私の医長室で、毎晩毎晩、夜中まで書き直し、手を加えた。そのマニュアルも今年、第4版が出版され、発行部数も飛躍的に伸び、腫瘍内科に対する世の中のニーズも急速に高まってきている。みつゆきくんたちも、今や、それぞれの領域での第一人者に成長した。当時、世間では、化学療法は、入院して行うというのが一般的であった。国立がんセンター病院では、1985年に通院治療センターが開設され、CMF、低容量ACなどのレジメンは外来で行われてはいたが、本格的な化学療法は、まだまだおっかなびっくりという状況であった。1999年に術後化学療法を実施した患者のカルテを見ると、入院患者では、ACの投与量はアドリアマイシン60mg/m2、シクロフォスファミド600mg/m2という標準量が使用されていたが、外来では、AC(40/400)6サイクルとか、(50/500)5サイクル、そして、その後、徐々に(60/600)が使用されるようになっていった。2000年から開始したNSASBC-02試験のレジメンも、1999年頃の計画段階では、AC(50/500)5サイクルという提案もした。しかし、「どうせ試験をやるのなら、国際的にも標準とされているAC(60/600)でやるほうがよいでしょう」と助言してくださったのは、群馬県立がんセンターの木村盛彦先生であった。今では、外来化学療法も「熱が出なければ採血する必要なし、知らぬがほっとけ、です」と、ちょっと無謀ではないか、渡辺君、と慎重な先生からは、おしかりを受けるようなことを全国を回って助言している私であるが、振り返って10年の間には、試行錯誤の日々もあったということをあらためて思い出す。忘れえぬ時代である。
「緩和的化学療法(palliative chemotherapy)」という概念を実感できたのもこの頃であった。1999年1月、34才の女性が、私の外来を救急車で受診した。ストレッチャーに乗り、酸素を吸入している。紹介状によると、乳癌で、骨、肺、胸膜(胸水)、リンパ節、肝臓に転移があり、様々な治療をやってきたが、万策尽き、余命1か月と説明したところ、国立がんセンターに行きたい、という本人の希望、とのことであった。状態は悪い。ご本人は外来で次のような希望をはっきりとおっしゃった。「3月17日に長男の幼稚園の卒園式がある。今、かかっている病院では、それまでもたないと言われた。もし、なんか治療があって、卒園式に出られるのなら、私は国立がんセンターで治療を受けたい。」と。「胸水を抜いて、酸素を吸入すればどうにかなるかも知れない、抗がん剤治療は可能だが、やってみないと効果がでるかどうかは、わからない」と説明し、とにかくやってみましょう、ということで入院となった。入院の翌日、たまたま来日していたメモリアルスローンケタリングがんセンターDr.Andy Sidemanが国立がんセンターを訪れることになっていたので、病棟回診をしてもらい、レジデントの清水千佳子先生にこの症例を提示をしてもらった。Dr.Seidemanは丁寧に患者を診察すると「状態は悪いが、症状緩和が目標であり、使えるのならパクリタキセルの週1回点滴はどうだろうか」と提案してくれた。我々は、数ヶ月前に抄読会で読んだJCOに掲載された彼の論文「Dose-dense therapy with weekly 1-hour paclitaxel infusions in the treatment of metastatic breast cancer」を覚えていた。早速、翌日から治療を開始した。一時期、病状は極限まで悪化し「DNR(Do Not Resuscitate) Order」が出されたが、2週目頃から、みるみる状態が改善、呼吸困難が軽快し、酸素なしでも歩行できるようになった。4週間にはCEAが著明に低下した。医師たちは喜んだ。3月9日退院、外来でパクリタキセルを続けた。患者は希望通り3月17日卒園式に参列することができた。さらに、4月5日の入学式にも夫婦そろって参列できた。4月の半ば過ぎごろから、リンパ管性肺転移が再度増悪、肝転移も進行し黄疸が出現した。本人のご希望に沿って地元の病院への入院を依頼した。連休明けの5月7日、今朝、ご家族に見守られ、静かに息を引き取ったという連絡をご主人から頂いた。お礼も言ってくれた。奥さんは、病床の枕元においた、満開の桜の下、親子3人でとった入学式の写真をいつもうれしそうに眺めていたそうだ。忘れえぬ症例である。
がん対策基本計画ができた、と言うことで、毎日新聞記者の永山悦子さんが先日取材にきた。記事は5月31日の朝刊に掲載された。なかなか、よくまとまっていて、ポイントを突いた記事であったと思う。取材でお話したことで、記事にならなかったことが二つある。一つは、上記のように1997年の時点ですでに、腫瘍内科の育成に取り組んでおり、腫瘍内科医の育成は確実に進んでいること。人を育てるということは、桃栗三年柿八年よりも、もっと時間がかかる。即席ではろくな人間は育たない。もう一つ、患者団体にあまり迎合する必要はないのではないか、ということだ。がん対策基本計画の議事録を読むと、患者団体が、各自の主張を繰り広げ、それにいちいち座長が対応している。マスコミなどでも、がん患者であることを告白することが流行っているが、我々は、常に診療の現場でがん患者の生の声を聞いている。治療でも、診断でも、できることはできる、できないことはできない、しょうがないことはしょうがない、済んだことは済んだこと、といった現実的な切り分けを如何に患者に説明し、具体的な対応を考えていくか、ということは、日々の診療での重要な課題としてすべての腫瘍内科医は既に取り組んでいるのである。なにも、患者団体に指摘されるまでもないことである。
今、私はASCO参加のためシカゴにいる。今回はNSASBC01試験の結果を発表する。データをまとめてみて、2-3年の時点での打ち切り症例があまりに多いのにあらためて驚いた。これは患者団体「イ○ア○ォー」による理不尽な妨害工作によるものだ。試験に参加した患者が中止を申し出たり、試験に参加していた病院が参加を取り消したりと、さんざんな目に遭わされた。この経験が私にとって大きなトラウマとなっていることは事実、だから、なおさら、自己中心的な患者団体のいい加減な主張には、今後も厳しく対応しなくてはならないと思っている。