姉を看取って考えたこと


【はじめに】

外は夜の大あらしだ。先週の木曜日の夜、姉が亡くなった。姉は私より5つ年上の59才、私が小学校に入学した年、姉は6年生だった。姉は私から見ると頑固で、やや風変わりだったし、人生観や価値観はかなり異なっていた。姉が病気にならなければ、やや、距離を持った姉弟として、比較的疎遠な関係を続けていたかもしれない。しかし運がよかったのか、悪かったのか、姉は、私が専門として取り組んでいる乳癌を発病した。弟として、主治医として姉の診療に携わり、そして最期を看取った経験は貴重であり、医師としては多くのことを学んだ。家族としては、今、微妙な感覚である。

 

【闘病歴と治療歴】

20006に姉は右乳癌を自分でみつけた。神田和弘先生にお願いし乳房全摘手術を受けた。ER陽性、PgR陰性、HER2陰性の浸潤性乳管癌グレード2だった。腋窩リンパ節転移は12個陽性であった。この時点で、近い将来再発することは覚悟せざるを得なかった。術後は、まだNSASBC02が走っていなかったので、化学療法AC(アドリアマイシン+シクロフォスファミド)を4サイクル、パクリタキセルを4サイクル行った。当時はまだウィークリー投与のパクリタキセルは一般的ではなかった。同様の治療を受けている患者は多数診ていて、脱毛がいつからどれぐらいの程度で起きるかということは確実に知ってはいたが、化粧もせず、かつらも付けず、帽子もスカーフもかぶらない姉の姿を自宅で目の前にすると切なく感じた。患者さんの家族はこんな心境なんだ、と強い衝撃を感じたのを情景とともによくお覚えている。化学療法終了後はタモキシフェン内服、まだ、ATAC trialの結果も出ていなかった。2002年5、左鎖骨上リンパ節転移に再発、来るべき時が来たと思った。肝転移、骨転移 もあり、治ることはないけれど、QOLを高めて、症状があればそれをやわらげ、いずれ出るであろう諸症状の出現を先送りし、そして、少しでも長生きしてもらいたい、という思いでの、再発後の治療が始まった。私たちがJCOに発表した予後インデックスで検討しても予測される生命予後の中央値は1年、こりゃあ、厳しいなとは感じたが、神田先生とも相談しながら、最善の治療を選び、最大の工夫をして、アリミデックス、アロマシン、ヒスロンHTS1、ナベルビン、CMFと治療を続けていった。それぞれがよく効いて、副作用もそれほど強くはなかったし、毎日の生活は普通に送れていたようだし、2005年の浜松オンコロジーセンターの立ち上げには姉も一生懸命、力になってくれた。CMF継続中に、腫瘍マーカーが上昇してきて、肝転移も目立ってきたので、治療を変えなくてはならない。姉と相談すると「すべてとおる先生におまかせ」と最初から最後まで一貫して、一番いいと思うことをやってくれればいい、というスタンスであった。脱毛もしかたないよ、やった方がよければ、そういう治療でもいい、ということであったが、弟としては、姉のはげ頭を再び見るのも切ないので、脱毛なしのコースで行こう、ということでジェムザール単剤を選択、これが1年以上にわたりよく効いた。QOLもよくって、脱毛もなく、当時JCOに論文を書いたKathy AlbineSt.Gallenで会った時に、単剤でよく効く薬剤なので、タキソールとの併用はしなくてもいいと思うがどうか、と聞いたら、確かにその通りかもしれない、一つの選択肢だという意見であった。ジェムザールは単剤で!という、信念に近いこだわりは、この時に出来上がった。そのあと、アバスチン+ゼローダを使用、これもけっこう長持ちした。アバスチンは乳癌では、生存期間の延長効果はない!と言うことになっているが「QOLを整える」という観点からは、とてもいい薬だと思う。こうやって、一つ一つの治療を、効果を確認しながら継続したが、20093月初旬、腫瘍マーカーがひたひたと上がってきて、そろそろ治療を変えようか、ということになり、脱毛系の治療をやらなくてはいけないと話すと姉は「また、キューピーちゃんみたいになるわけね、わかった。じゃ、そういうことで、はいねー」となんのこだわりも現わさなかった。St.Gallen 2009から帰国した翌日の319日、術後に使用したパクリタキセルを、今度はウィークリーで使用することにしたが、その1回目、午後3時ごろに点滴を終えて帰宅、夜の7時ごろ、姪から「おかあさんがとても苦しそうにしている」と連絡があり、すぐにオンコロジーセンターに来るように伝えた。アナフィラキシーも想定して、ソルコーテフ、ボスミンなどを用意して待った。ほどなく姪に抱きかかえられるようにした玄関を入ってきた姉はチアノーゼ状態、手足冷たく、呼吸が苦しそう。脈も触れないぐらい血圧も下がり、アナフィラキシーショック、過敏性反応グレード4だ。すぐに用意しておいたソルコーテフ、ボスミンを点滴、呼吸も止まって、意識も全くなくなってしまったがアンビューとマスクで呼吸をアシストしながら心拍と血圧の安定を待った。母、兄たち、家族を呼び34時間に亘る蘇生努力の結果、意識が戻り、血圧も回復し、呼吸も安定した。しかし、まだ、予断は許されない状況であったので、救急車に一緒にのって医療センターに搬送した。医療センターERの担当の先生に、気管内挿管をお願いし、ICUに入院となった。乳腺外科の徳永先生は医局送別会のさなかに駆けつけてくれた。胸水があったので呼吸状態を良くするため1リットルぐらい排液し、一晩あけたら意識は完全に戻りすぐに抜管、1カ月に退院できた。今、思い返しても蘇生出来たのは奇跡的だったように思う。パクリタキセルは1回だけだったがよく効いて、腫瘍マーカーもするすると下がった。キューピーちゃんにもなった。しかし、その後は、再びパクリタキセルを選択することはできず、また、類縁のドセタキセルはどうかと考えたが、本人も、「もう、あれはこりた」というので、タモキシフェン使ったところ、腫瘍マーカーも再び低下、年末には親友の恵子さん宅のお餅つきにも参加したし、もう一回のお正月を迎えることも出来た。しかし、肝転移が悪くなり、食欲がない、というのでヒスロンHをもう一回使うと食欲もでて太ってちょっと元気良くなったが、おでこにできた骨転移が外から見ても分かるぐらい大きくなってきた。連休前ぐらいから、周りから見ても体調わるく心配した母からも何回も電話がきた。5月の連休は実家で療養したが、何もたべられない、水分も飲めない、という状態となったので、連休明けに徳永先生にお願いして医療センターに入院 した。聖隷ホスピスも予約したが週1回しか外来をやっていないため外来予約は18日。医療センター入院後、緩和医療科の佐々木一義先生も工夫してくださったので、数日間、食欲はでたものの、黄疸は明らかとりなり次第に弱って行った。毎日の回診で、いろいろなことを話した。「こうやってみんな、死んで行くの」と尋ねる姉に「うん、いろいろだよ、きまった形はないけどね、いろいろ、みんなちがうよ。」と答えた。姉は、「そうか、そうだね。」といったような気がする。520日、昼に回診したとき、明らかに様子が変わっていた。あと12日だろうと思った。午後に厚労省に行く用事があったが夜8時前に浜松に戻り、もう一度、病院に行く支度をしていたところに甥から「そろそろですって看護婦さんがいっている」と電話があり妻妙子といっしょに病室に向かった。夫、子供たち、友人らが、来ており、下顎呼吸で、呼吸間隔がだんだんと延びていく。国立がんセンターで約300人の患者を看取った経験から、自分なりの看取りのマニュアルがある。「呼吸が緩慢になってきたら、病室に詰め、家族の後ろでじっと見つめる、そして、呼吸毎に数を数え、200数えても次の呼吸が出なければ、失礼しますといって、前に進み出て、心音を確認し、瞳孔散大、対光反射のないことをきちんと確認し、家族に向きなおって、「ご臨終です、何時何分、死亡を確認しました。」と言って深く頭をさげる、という手順を踏む。これは、「おくりびと」と同じで、医師として厳粛にとり行うべき儀式である。自分のマニュアルに従えば午後833分に死亡 を確認できた。

 

【医師として学んだこと】

手術の時点で予後が悪いということは明確であったが、できる限りの手立ては行った。 2年後の再発は、本人も私も冷静に受け止め、できることを一つづつやっていこう、ということになった。 弟の私はとくに姉だからということで特別な治療を選択したわけではなく、30年間の経験に基づき、局面毎に最善、最良と思われる治療を選択した。 最期は、自宅での看取りも考えたが家族の介護力にも限界があり入院療養を選択した。ホスピスは敷居が高く入院できず、残念ながら世の中の役には立っていない。再発治療から緩和医療、終末期医療まで、途切れることなくシームレスに、安心、安全、安楽を提供できるがん医療体制の構築が必要であり、「オンコロジーケアハウス」を設立をしたいと思うが財力がない。

「もし、先生の御家族だったらどういう治療をしますか?」、患者向けの指南書に、医師の真意を確かめるためにはこのような問いかけも有用、と書いてあるのを見たことがあるがばかげた質問だ。家族も眼の前の患者も同じで、私にとっては大切な患者である。だから精一杯考えて一番よいと思うことをやるのが当たり前だ。乳がんになっても、また、再発しても「運は悪かったかもしれないが不幸ではない」人生を送ることはできる。

 

【おわりに】

姉は、自分が死んだら、通夜も葬式も戒名もいらない、病院からそのまま火葬場に運んでくれ、と言っていたらしい。風変わりな姉だと思う。姉の子供たちはそれを真に受けて、そのようにすると言い張った。私には、そんな非常識な行動は理解できないので、主治医としてのかかわりがなくなった時点で、家族ではあるがそれ以上関与しないようにした。さすがに、周囲から説得され、子供たちも納得したらしく、お通夜、お葬式をして戒名もついた。戒名は、薫風○○・・というのがついたらしい。千の風のように、おおぞらを気ままに飛び回っているのだろうか。10年に及ぶ姉の闘病生活を主治医として見守ってきて、出来ることはやった、出来ないことはしかたない、他にできることは見当たらないし、結果はこれでよかったのだと思っている。さよなら、お姉さん。

外科医 ー 手術 ≠ 内科医


ゴキブリの羽をとってもアーモンドにはならないのと同じように外科医が手術をやめても内科医にはならないということが分かっていないひとが世の中には多い。一般人もそう思っているし、外科医もそう思っている。マスコミもそう考えているようだ。この問題は根が深い。

先輩からの名言


父の背中や高木君の言葉のブログには結構反響があった。医療センターのオープンシステムを初めて知ったとか、地域医療の在り方に関する卓見など、また、どのように勉強すれば腫瘍内科を習得できるのでしょうか、という問いかけもあった。学生が来たり研修医と接したりしていると自分はどういうふうに現在の行動の規範を形作ったのだろうかと、考えてみる機会が多々ある。つまり指導に苦慮しているということ。最初に研修病院に出たときにお世話になったK先生は、私たちが病棟業務をしているとやってきて「遅くまで大変だね、ラーメンでも食べに行くかい」と、近くの屋台に連れて行ってくれた。それで、説教をするわけではなく「先生たちはいいよなー、これで1年もたてば、はい、さようなら、って、次の病院に移れるからな、頑張ってくれよな。でも、おれたちは、絶対に患者から逃げられないし、患者が診てほしいって言ってきたら絶対に断れないんだよ。」と、愚痴るような、はげますような話で、一体何を言っているのだろうか、と当時は感じた。しかし、K先生は患者を他の病院に紹介した時は地下鉄で同行し、また、夜中でも休日でも、呼ばれれば絶対に病院に出てきた。医師としての規範を自らの行動で示してくれたように思う。国立がんセンターのレジデントの時代、先輩からたくさんの事を学んだ。市川平三郎先生が夜の10時ごろにお帰りになるときに、玄関の自販機で缶コーヒーを買っていた私に後ろから「遅くまでがんばるねー、若いうちは寝食を忘れて頑張ることも大切だね、じゃ、お先に」と声をかけてくれたことがあった。阿部薫先生は「アルバイトをしていいとかいけないとか、そういうことを私は言うつもりはありません。君たちのような若者が、青春の貴重な時間を切り売りするようなことはしてほしくない、本当にもったいないということです。」と、オリエンテーションのときにお話しになった。このような先輩の教えは、いまでも鼓膜のあたりでこだまして、いつの間にか、骨身にしみついているような気がする。時代はそんなに変わったとは思わないが、どうしたら楽ができるか、どうしたらお金が稼げるか、どうしたら楽しい生活が送れるか、というのが行動の規範になっている諸君が多いような気がしてならない。われわれが先輩からの名言を後輩に伝えることができないことが問題なのだろうか、と、ふと弱気にもなってしまう。

5周年記念独り言 父の背中と友の声


浜松オンコロジーセンター開設5周年をむかえる2010年5月も春らしい穏やかな一日から始まった。街角がん診療の理念の下に、患者の声に耳を傾け、出来ること出来ないことを仕分けて、出来ることに対してBest Effort Principleで臨むという基本姿勢は、スタッフの間にも浸透してきた。地域のがん医療の在り方も、少しづつ変容してきており、重厚長大なメガホスピタルにすべてをゆだねる現行の「がん診療拠点(きょとん)病院ピラミッド構想」は国立がんセンターの崩壊とともに過去の遺物となり、医療と介護が一体化された地域がん診療へと目標が再設定されたように思う。あらたな目標は、街角がん診療の方向性と合致するもので、さらに「がん介護」の在り方を模索する必要が生じてきた。浜松でも、青森でも、そして東京でも、「在宅がん介護」っていうのをどのように、安心、安全、安楽系の社会保障として実現していくか、を具体的な課題として取り組んで行きたい。
地域医療を考える上で県西部浜松医療センターのオープンシステムについて紹介したい。医療センターは、強烈な赤字にあえいでいるがいい病院だ。前身の浜松市医師会中央病院時代から、診療所医師が院外主治医として診療に参加する「オープンシステム」を採用している。これは、父、渡辺登ら、浜松市医師会の当時の若手が、地域医療の新しい形態として、その実現に取り組み、全国的にも注目されていた時期があった。しかし、院内の医師にしてみれば外部の医師が、それもしろうとが診療につべこべと口を出しわずらわしい、という意見があった。また、院外主治医も、忙しい診療の合間に時間を割いて回診しても、患者には感謝されるけど病棟の看護師や医師には、どこのおやじだ、みたいな顔をされるためだんだん足が遠のく。現在ではこのオープンシステムを利用している院外主治医は30名前後らしい。私は医学部学生のころの夏休み、帰省し父の診療を見学したり往診について行ったり、医療センターの回診について行ったことがあった。父は9階まで階段で昇るのが自慢であった。そして入院患者のいる病棟を順番に回るのだが、顔見知りの看護婦が多くいて笑顔で迎えてくれた。その都度、言わなくてもいいのに「これ息子で、今、北大の5年目」と私を紹介した。ずっと歳月が流れて10年前に姉が手術のために入院した時にも、父と一緒に病室に見舞いに行った。その時も父は、右手を挙げてナースステーションの看護師に、じゃ、あとよろしくう、と挨拶をしたが、父を知る看護師はほとんどおらず、だれ、あのひと、という顔をされた。だから、手を挙げるの、やめなよ、と言ったことが何回もあったが父は知らん顔だった。そして今、私が、父と同じように医療センターに入院している患者を回診している。毎日、とにかく金曜日以外は毎日、必ず回診するように心に決めている。一番の理由は顔の見える病診連携を模索しつつ、がん医療-がん介護連携の足がかりも作れないかと可能性を探っているのだ。血液疾患の病棟やら、消化器疾患の病棟やら、乳癌の病棟やら。乳癌病棟に行けば、天野さんとか、マスクをしていても識別できる看護師がいるが、他の病棟では、マスクの似合う看護師は多いが、ひとりひとり識別できないし、書類の在りかを聞いても知らん顔されたりだが、かまわずめげず、じゃ、あとよろしくう、と父のまねをして回診を続ける。この話を静岡の高木正和先生に先日したら、「静岡県立病院でも、院外の先生がきているけど、病棟で会うとかならず、『こんにちは、お疲れ様です。お世話になります。』って大きい声で挨拶して、研修医たちにも紹介するようにしてるんだ。そうすると開業の先生も来やすいし、しょっちゅう連絡くれるし、退院後も気持ち良く引き受けてくれるし、若い奴らもちゃんと挨拶できるようになるからね」と、親友ののすばらしいことばに胸を打たれる。とかく、形ばかりの病診連携だが、院外医師も、院内医師も、それぞれのミッションを正しく理解し、パッション、ハイテンションでうまくやれるのだ。挨拶もろくにできない、研修医が増えているが、それは、教える側にも問題がある。父の姿を思い浮かべながら今日も医療センターに行ってきた。