研修医の山本学君は、腫瘍内科医を目指して勉強中だ。「これからのがん治療は薬物療法だぜ、外科手術はそのうちなくなるよ、とくに乳がんなんて、今でもすでに手術は検査だよ。」って言っている渡辺亨先生の浜松オンコロジーセンターで研修中だ。山本君はよく勉強している。今日もカンファレンスの後の「最近の話題を語ろう」のコーナーでハーセプチンについて疑問に思っていることを渡辺亨先生にぶつけてみた。
山本君 乳癌術後にハーセプチンが承認されましたね。これで正々堂々と術後の患者さんにハーセプチンが使えるわけですね。
渡辺先生 そうだ。2005年のASCOで術後ハーセプチンの効果が発表されてから3年近く経ってやっと承認された。遅いね、日本は。
山本君 そういう話、あちこちで聞きます。承認された用法を読むと、3週に1回の投与だけなんですか? 術後に使うのは。これって、なんかおかしいですよね。今まで転移性乳がんでは、週1回なんですよね、同じ病気なのに使い方が違うのは、何か意味があるのですか。なんか、すごく紛らわしいですよね。
渡辺先生 そうだ、紛らわしい。意味があるといえばあるといえるが、意味がないと考えるほうが健全だ。エビデンスを正しく解釈すれば、術後でも、再発後でも、週1回投与と3週1回投与と、どちらでもいいと思うよ。
山本君 じゃあ、なんでこんなややこしいことになってしまったのですか。術後にACの後、パクリタキセル80mg/m2と併用してハーセプチン2mg/kg(初回だけ4mg/kg)を週1回12週間、その後、ハーセプチン2mg/kgを週1回40週間、というやり方で、エビデンスがありますよね。
渡辺先生 そうだ、エビデンスがちゃんとある。アメリカのNorth Central Cancer Treatment Group では、N9831というトライアルで、AC→weekly paclitaxelをコントロールアームとして、君の言ったように、これにpaclitaxel開始と同時にハーセプチンを加えるアーム、paclitaxel終了後、ハーセプチンを52週間、毎週投与するアームの3つを比較した。すると、ハーセプチンを加えた2アームは当然、コントロールアームよりも再発抑制率が優れていたが、さらに興味深いことは、ハーセプチンをpaclitaxelと同時に併用して開始したアームのほうが、ハーセプチンをあとから開始したアームよりも優れていた、っていう結果が出たんだ。だから、少しでも再発を抑えたい、というならば、当然、ハーセプチンは、paclitaxelと同時に始めるほうがいいと思うよ。
山本君 これがダメっていうのは、どうしてなんですか?
渡辺先生 ダメっていうわけではないと思うよ。ただ、術後ハーセプチンの承認をとるために、中外製薬が提出したデータがHERAトライアルなので、いわゆる「HERAスタイル」の投与方法だけが承認されたということさ。
山本君 それは、中外製薬のやり方がまずかったってことですか?
渡辺先生 今回のこの件については中外のやり方はまずくはないと思う。他のことでは中外はまずいことだらけだけどね。日本から参加した試験は確かにHERAトライアルだけで、アメリカで実施されたNorth Central Cancer Treatment Group trial N9831や National Surgical Adjuvant Breast and Bowel Project trial B-31には、日本から参加していないんだ。だから申請者として中外製薬は、アメリカの試験の生データを持っていないし、申請資料に含めることができなかったんだ。もちろん、すでに論文にもなっているから、参考資料としては、当然提出したと思うけど。
山本君 じゃあ、審査する厚生労働省がそういうふうにしたわけですか?
渡辺先生 そうだ。お役所としては、申請された資料に基づいて審査して承認するわけだから、そのような姿勢は、それなりに評価してもいいと思うよ。審査するのは厚生労働省ではなくって医薬品医療機器審査機構というところなんだ。新霞が関ビルというところにある。ぼくもこう見えても以前はそこの外部委員みたいなことをしていたので内情はよくわかる。そのような承認の仕方が、かたくなだとか、頭が固いとか、料簡が狭いとか、視野狭窄だとか、けつの穴が小さいとか、いろいろな批判もあるかもしれないけど、審査する側のポリシーとしてはそういうことは理解はできるわな。
山本君 そうかなあ、なんか、とても融通の利かない対応に思えるけど。
渡辺先生 そうだ。そのように考えるのが健全だよ。山本君は今までいい勉強をしてきたから、そういったまともな考え方ができるんだよ。いいか、わかるか。医薬品医療機器審査機構や厚生労働省は、行政の立場で考える。それなりに根拠がなくては行政は務まらないから、われわれから見ると、融通が利かないようにみえる。われわれ腫瘍内科医は、もう少し広い視点を持っているから、最善の治療を患者に提供するにはどうすればいいいか、という観点から、あらゆるエビデンスを縦から横から吟味する。申請に使った資料だろうが、使わない資料だろうが、エビデンスとして信頼できれば、それに立脚して医療を実践することが大切なんだよ。
山本君 そうですよね、そのほうがしっくりしますよね。だから日本人はだめなんですよね。
渡辺先生 日本人だとか、パプアニューギニア人だからとか、そういう問題でもないんだよ。FDAだって薬剤の承認については、医薬品医療機器審査機構と同じような対応をすることもあるよ。でも議論はもっと柔軟にできるし、担当官ももっとよく勉強しているけどね。
山本君 それじゃあ、日本の行政は勉強していないみたいな言い方ですね。
渡辺先生 そうだ。はっきりいって勉強していない。というか人手不足でとても手が回らないから、じっくりと勉強なんてしてられないんだよ。話が横道にずれたけど、とにかく大切なことは、承認されたとか、されないとか、承認された用量はどうとか、こうとか、ということより、プロフェッショナルとしてリーズナブルにディシジョンメイキングしてプロブレムソルビングすることだよ。
山本君 先生、急に黒川清先生みたいにわけのわからない横文字羅列になりましたね。でも、おっしゃっていることはわかります。つまり、術後だっても、weeklyでハーセプチンを使用してもよいし、ACの後のパクリと併用してもいいわけですよね。
渡辺先生 そうだ。そのとおりだ。
山本君 では、ついでにもうひとつ、伺いますが、術前治療でのハーセプチンはどうでしょうか。
渡辺先生 術前治療でも、数々のエビデンスがあるよね。有名なところでは、MDアンダーソンのアーマンブズダー先生のやつ。当然、HER2過剰発現があれば、術前治療でハーセプチンを使うこともあるよね。っていうか、あれだけのエビデンスがあるんだから、温存を希望しているけど、腫瘍径が大きくて温存はちょっと無理、というような患者では、積極的に使っていいんだよ。
山本君 でも、今回、術後に承認されたけど、術前で使うのは転移性乳がんではないし、だめなんじゃあないんでしょうか。
渡辺先生 山本君、何で突然、そうなっちゃったの? さっきはとても融通の利く、いい発想だったのになあ。じゃあ、簡単に説明しよう。腫瘍径の大きい乳がんや転移した乳がんのことを、外科医は、進行・再発乳がんとよんでいるんだね。これは、手術適応のない乳がん、というニュアンスがある。一方、腫瘍内科の観点からみると、遠隔転移のある乳がんということでmetastatic breast cancer。転移性乳癌という呼び方がある。厳密にはイコールではないけど、転移性乳がんを進行・再発乳がんと同義語のように使われることがあるんだ。だから、術前化学療法を検討するような症例は、進行乳がんだから、転移性乳がんと同義に考えればいいわけよ。その辺は、プロフェッショナルとしてリーズナブルにディシジョンメイキングしてプロブレムソルビングすることだよ。
山本君 はい、よくわかりました、黒川先生。
研修医の山本学君は納得いくまで渡辺先生と話をした。今まで頭の中でなんとなくもやもやしていた問題も、今回のハーセプチンの適応の話を練習問題として、腫瘍内科の第一人者、渡辺亨先生の考えに100%共感できた。山本君は浜松オンコロジーセンターでの研修は本当に有意義だと思った。いつしか、時計の針は午前2時を回っていた。明日も朝8時30分から外来だ。午後からは静岡県外科医会があるから三島に行かなくてはいけない。渡辺先生も特別講演で話をする。きっと、これからスライド作るんだろうな。大変だよな、よくできるよな。山本君は宿舎となっているホテルday by dayに帰った。見上げた空には三日月が浮かんでいる。