南から北から


毎年晩秋に伺う沖縄講演も今年で16回目、宮良先生が「琉球乳腺倶楽部」という勉強会を立ち上げて毎月の講演会を企画しているとのこと。私は11月のおわりとか、以前は2月の始めとか、そのあたりの(よい季節の)担当です。毎年、一人、若手医師や、ナースや薬剤師を同行しての参加していますが、今年は同行できるようなエネルギーのある該当者がおらず一人での参加。沖縄の乳がん診療も一般診療のレベルが少しづつ上がってきて、EBMを習得し、臨床研究や臨床試験にも目が向くようになり、海外学会にも皆さん、参加するようになりました。しかし、ランダム化比較試験は非倫理的じゃないか、みたいな質問も昨年だったか、あったので今年はあらためて「clinical equipoise(臨床的平衡)」が比較試験実施の土壌となる、という話なども提示。古いけれども新しい話、ペグフィルグラスチムを使った攻撃型初期治療などを交えて仕上げた講演になりました。翌朝、那覇から羽田経由で青森へ。いわき荘温泉で吉○茂○先生を領袖とする「がんセンター社会派研修会」という内輪の討論会を終え、今日は、認定看護師成田丸の企画する「ピアサポーターのためのSPIKES」の話とグループワークをサポート。いわき荘朝6時、朝のジョッギングに行来たくても外は真っ暗なので日の出をまっております。昨日は暖かい那覇で6km走ったけど、西にある那覇は北にある青森よりも日の出は早かった。今週も充実した1週間が始まりました!!

できる!! 街角がん診療(12)


そしてこれから

2007年7月、92歳の父を看取り、2009年4月、5歳上の姉を看取った。父は口腔がん、姉は乳がんで、私の専門とするがんでこの世を去った。主治医として、また、家族として関わったのであるが、がん患者の苦しみ、家族の苦しみも味わった。と同時に、もっとよいがん医療をつくれないものだろうか、という熱意はさらに強くなった。診療所でできることには、限界があるのも事実だが、診療所でなければできないこともある。大病院と同じ事をやろうとしても意味がないと思う。診療所だから出来るがん診療は、おそらく、日本全国どこでも、ニーズは高いだろうと思う。今後も便利で、安心、安全、安寧なるがん診療をさらに発展させて行きたいと思う。

できる!! 街角がん診療(11)


専門とするがん医療を日々の診療と、もうひとつ、どうしたらもっと良いがん診療ができるだろうかという目線で、NPO法人「がん情報局」を設立し、情報提供活動を行い、市民講座、医師、看護師、薬剤師を対象とした勉強会、そして、症例検討会や多地点テレビカンファレンスなど、さまざまな活動を続けている。(以下次号)

できる!! 街角がん診療(10)


街角がん診療の日々

セカンドオピニオンを聞きに来る患者が受けている治療内容、地域で開催される症例検討会、カンファレンス、地方会、学会などで提示される、がん治療の実態を見るにつけ、今まで私が、国立がんセンターなどで学び、経験して得たものとは、あまりにかなりかけ離れたがん医療の実態にふれ、正解はどこにあるのか、ひょっとしたら、自分が間違っているのか、わからなくなってしまうこともあった。大腸がんが肝臓や肺に転移しても、手術すれば治りますよ、と言って無茶な手術をしたり、乳がん患者に抗がん剤は副作用が強いからやめときましょうと、やたら弱腰の取り組みをしたりする外科医とはなかなか意見が合わす、これではまるで「四面楚歌」ならぬ「四面外科」だと思った。しかし、父が設立に尽力した浜松医療センターのオープンシステムを活用し、乳腺外科、徳永祐二先生らと効率的な病診連携も構築することができた。(以下次号)

できる!! 街角がん診療(9)


国立がんセンターではレジデント教育の責任者も任せられた。内科では、呼吸器、乳腺、消化管、血液、肝胆膵、といった臓器縦割り指向が根強く、腫瘍内科学という臨床医学としてのまとまりが乏しかった。そこで改革に着手、レジデントには内科全科ローテーションを義務づけ、指導される側、指導する側の認識の一致をはかるため定期的に連絡会議を開催した。また、後輩や、レジデント諸君の協力を得て、国立がんセンター内科レジデントマニュアルを刊行し現在まで、改訂版が発刊されている6。国立がんセンター中央病院での勤務は16年に及び、他では得られない多くの事を学び、やりたいことはやり、残すべき足跡は残し、育てるべき人材は育てたと感じていた頃、次の仕事として郷里での街角がん診療実践へと舵を切った。第三の決断である。(以下次号)

できる!! 街角がん診療(8)


米国(テネシー州ナッシュビルにあるヴァンダービルト大学)への4年間の留学を経て、国立がんセンター病院内科の医員としての勤務が始まったのが1987年9月1日であった。国立がんセンターでは、臨床試験への取り組みが本格的に始まった頃で、JCOG乳がんグループも比較試験の結果が出始めていた。帰国した私はデータ解析を担当するように阿部先生から指示をうけたが、ランダム化すらおぼつかない試験のデータは、なさけないものであった。そこで学んだことは、「臨床試験は計画、実施、解析」の三拍子が大切ということであった。その後、ハーセプチンの第I相試験、NSASBC01試験といった重要な試験の責任者を任せられた3-5。これらの経験を通じて得られた全国の、そして世界の臨床研究者との交流は今でも私の財産である。(以下次号)

3 Tokuda Y, Watanabe T, Omuro Y, et al. Dose escalation and pharmacokinetic study of a humanized anti-HER2 monoclonal antibody in patients with HER2/neu-overexpressing metastatic breast cancer. Br J Cancer 1999; 81(8): 1419-25.

4 Watanabe T, Sano M, Takashima S, et al. Oral uracil and tegafur compared with classic cyclophosphamide, methotrexate, fluorouracil as postoperative chemotherapy in patients with node-negative, high-risk breast cancer: National Surgical Adjuvant Study for Breast Cancer 01 Trial. J Clin Oncol 2009; 27(9): 1368-74.

5 小崎 丈太郎著、阿部薫編. N・SAS試験 日本のがん医療を変えた臨床試験の記録. 東京: 日経メディカル開発; 2013.

できる!! 街角がん診療 (7)


第二の決断

阿部薫先生は当時、国立がんセンター研究所、病院の内分泌部長として、ホルモン産生腫瘍の研究、乳がんなどのホルモン反応性腫瘍の臨床、そしてレジデント教育など、精力的に活躍されていた。レジデント14期生として採用された私にとっては、折に触れて語られた「国立がんセンターは放牧場だ。好きなところで好きな草を食べなさい。」、「若いうちは寝食を忘れて勉強に没頭しなくてはいけないな。」、「アルバイトなどで青春の貴重な時間を切り売りするようなことはいかがなものかな」などの阿部語録は、第二、第三の座右の銘である。

内分泌部では、恒常性を攪乱するがん、ホルモンや増殖因子などによって調節をうけるがん、などが研究、診療のテーマであり、臓器縦割りではない、生物学的側面から束ねたがん診療の取り組み、すなわち「腫瘍内科学」の真髄をそこで学ぶことが出来た。私の初めての英語論文は、乳がんの転移により副甲状腺が破壊され低カルシウム血症を来して死亡した女性の症例報告である2。(以下次号)

  1. Watanabe T, Adachi I, Kimura S, et al. A case of advanced breast cancer associated with hypocalcemia. Jpn J Clin Oncol 1983; 13(2): 441-8.

できる!! 街角がん診療 (6)


北大卒業を控え、進路を父と相談しても、「医学(Medicine)の基本は内科(Medicine)だからな」といった漠然とした助言しかしてくれなかった。それでとりあえず内科を広く学ぼうと思い、北大の第一内科に入局した。第一内科は呼吸器疾患が専門で、研修中にACTH産生小細胞肺癌、アミラーゼ産生肺腺癌など奇妙な病態に多く遭遇した。それまでは、私のがんのとらえ方は、肺癌はレントゲン写真に現れるように、単なる丸い塊程度の認識で、気管支を圧迫して呼吸困難を来たす、脳に転移して頭蓋骨内の圧力が高まるといったがんの機械的側面にしかなかった。しかし、学ぶうちにがん細胞がホルモンなどの生理活性物質を無秩序に産生し、生体のホメオスターシス(恒常性維持機構)が撹乱される、というがんの生物学的側面に興味を持つようになった。「ホルモン産生がん」関連の論文を検索すると阿部薫という名前がしばしば登場し、所属をみると国立がんセンターとなっていた。その頃、大学医局の掲示板に貼ってあった「国立がんセンター病院レジデント募集」のポスターを見て、卒後2年目から築地での勉強が始まったのである。(以下次号)

できる!! 街角がん診療 〔5〕


第一の決断

我が診療所は、祖父、父、私と三代にわたり世襲されている。祖父は診療所の運営以外に、聖隷病院の開設に尽力し、浜松市の中心部から浜松の北の果ての三方原まで、大八車に結核患者を乗せて運んだという。父は、浜松市医師会中央病院や浜松医療センターの設立、国立医科大学誘致など、浜松地区の医療体制を整備する活動に関わってきた。父は私に、あとを継げとは一切言ったことがなかった。私が受験生の頃、勉強の合間に居間に降りていくといつも父が分厚い洋書を読んだり、書き物をしたりしていた。通信教育Z会の英語を教えてもらい、医学の話なども聞いているうちに、自分もきっと、いずれは父のように診療所をやることになるのだろう、と漠然と思っていた。その思いは北海道大学に進学しても変わらず漠然としていた。(以下次号)

濃厚なダブルヘッダーの一日


土曜日は午前中、東大の医学部図書館で開催された臨床試験学会で講演、対象は臨床試験をマネージするCRC(Clinical Research Coordinator)のみなさん。2-3年前までNSASグループでこのような勉強会を毎年開催していた。今回の参加者の中にはそのころからの顔見知りのCRCは数えるほど。この業界の離職率、回転率も随分高いなという印象をうけた。内容は(1)プロレスラーHの話題、その主題は私の目から見れば疑問を感じるような乳がん治療が、ワイドショーで不適切なほどに詳細に報道され、リテラシーの乏しい一般国民の間に無用な不安を引き起こし、診療の現場は混乱を来しているという現状。何が悪いと言ったら、おもしろおかしく画一的に報道するマスコミなのではないか、という視点。(2)臨床的平衡(clinical equipoise)、これは、ランダム化比較試験を実施する絶好の母地になる、つまり、CRCの活躍の土俵である、土俵とは相撲で使われる丸い場所だよ、という視点。(3)抗PD-1抗体最新事情。効果あっての治療薬なのだから、重箱の隅の副作用を一生懸命探さないでよCRCさんたち、という視点。このような勉強を経て「認定CRC]となるらしい。認定された場合とされていない場合と、何が変わるの? 給料が二倍になるの? 「認定CRC」でないと、治験とかの業務に関与できないということになるの? でも、離職率、回転率が高いのは、やはり、重箱の隅をつつくようなことばっかりやっていると、疲れ果ててしまうからなのかなー、など羽田空港までの道中、いろいろと考えたのだった。午後は、第二の故郷北海道の帯広で「乳がん診療と骨の健康(Bone Health)」の講演。会場は帯広駅前のアパホテル。駅前にはホテルが15ぐらいあるみたいで、観光客?、ビジネスマン? が多い土地らしい。学生時代、池田町のワイン城、愛の国から幸福へ、えりーものはるーは−♪、などを友らとオレンジワーゲンに乗って訪れた懐かしい土地でもあるが、随分と様変わりした。帯広厚生病院の北大第二外科出身若手吉岡先生と昨年だったか、その前だったか、札幌の講演で会った時の「帯広にきっと行くからね」という約束が実現したものだ。帯広は道東地区の玄関口、乳がん診療に積極的に取り組む医師、認定看護師が、やっと成長してきた土地、聴衆はすごく熱心で、的を射た質問が多くあり、今後がとても楽しみである。空港は町の南20kmぐらいのところにあり、往復は広大な農地の中のまーーーーっすぐな道をひたすら走る。往きは、豊かな農地、いかにも北海道、雄大だ!!という明るい車内だったが、帰りのハイヤードライバーの、え−、そうなの? という、ちょっとぞっとするような怖い話を聞き、車内はやや暗いトーンに。怖いのでこれ以上、言えないけど、ここ帯広は、昔は北海のヒグマ、中川一郎、ちょっと前は息子の中川昭一、それに民主党の石川知裕、そして今は新党大地の鈴木宗男、路チュウの中川郁子と、どれもこれもお騒がせの議員の地盤。しかもTPPとかCIAとかKGBとかが絡んでいて・・・・、こわーい、ということで、日曜日の昼さがり、安堵の土地、浜松に戻ってきた。いろいろな事があったが成長できた一週間が過ぎ、それでも朝は来る、明日は、木俣新ちゃんがやってくる。