できる!! 街角がん診療 (6)


北大卒業を控え、進路を父と相談しても、「医学(Medicine)の基本は内科(Medicine)だからな」といった漠然とした助言しかしてくれなかった。それでとりあえず内科を広く学ぼうと思い、北大の第一内科に入局した。第一内科は呼吸器疾患が専門で、研修中にACTH産生小細胞肺癌、アミラーゼ産生肺腺癌など奇妙な病態に多く遭遇した。それまでは、私のがんのとらえ方は、肺癌はレントゲン写真に現れるように、単なる丸い塊程度の認識で、気管支を圧迫して呼吸困難を来たす、脳に転移して頭蓋骨内の圧力が高まるといったがんの機械的側面にしかなかった。しかし、学ぶうちにがん細胞がホルモンなどの生理活性物質を無秩序に産生し、生体のホメオスターシス(恒常性維持機構)が撹乱される、というがんの生物学的側面に興味を持つようになった。「ホルモン産生がん」関連の論文を検索すると阿部薫という名前がしばしば登場し、所属をみると国立がんセンターとなっていた。その頃、大学医局の掲示板に貼ってあった「国立がんセンター病院レジデント募集」のポスターを見て、卒後2年目から築地での勉強が始まったのである。(以下次号)

できる!! 街角がん診療 〔5〕


第一の決断

我が診療所は、祖父、父、私と三代にわたり世襲されている。祖父は診療所の運営以外に、聖隷病院の開設に尽力し、浜松市の中心部から浜松の北の果ての三方原まで、大八車に結核患者を乗せて運んだという。父は、浜松市医師会中央病院や浜松医療センターの設立、国立医科大学誘致など、浜松地区の医療体制を整備する活動に関わってきた。父は私に、あとを継げとは一切言ったことがなかった。私が受験生の頃、勉強の合間に居間に降りていくといつも父が分厚い洋書を読んだり、書き物をしたりしていた。通信教育Z会の英語を教えてもらい、医学の話なども聞いているうちに、自分もきっと、いずれは父のように診療所をやることになるのだろう、と漠然と思っていた。その思いは北海道大学に進学しても変わらず漠然としていた。(以下次号)

濃厚なダブルヘッダーの一日


土曜日は午前中、東大の医学部図書館で開催された臨床試験学会で講演、対象は臨床試験をマネージするCRC(Clinical Research Coordinator)のみなさん。2-3年前までNSASグループでこのような勉強会を毎年開催していた。今回の参加者の中にはそのころからの顔見知りのCRCは数えるほど。この業界の離職率、回転率も随分高いなという印象をうけた。内容は(1)プロレスラーHの話題、その主題は私の目から見れば疑問を感じるような乳がん治療が、ワイドショーで不適切なほどに詳細に報道され、リテラシーの乏しい一般国民の間に無用な不安を引き起こし、診療の現場は混乱を来しているという現状。何が悪いと言ったら、おもしろおかしく画一的に報道するマスコミなのではないか、という視点。(2)臨床的平衡(clinical equipoise)、これは、ランダム化比較試験を実施する絶好の母地になる、つまり、CRCの活躍の土俵である、土俵とは相撲で使われる丸い場所だよ、という視点。(3)抗PD-1抗体最新事情。効果あっての治療薬なのだから、重箱の隅の副作用を一生懸命探さないでよCRCさんたち、という視点。このような勉強を経て「認定CRC]となるらしい。認定された場合とされていない場合と、何が変わるの? 給料が二倍になるの? 「認定CRC」でないと、治験とかの業務に関与できないということになるの? でも、離職率、回転率が高いのは、やはり、重箱の隅をつつくようなことばっかりやっていると、疲れ果ててしまうからなのかなー、など羽田空港までの道中、いろいろと考えたのだった。午後は、第二の故郷北海道の帯広で「乳がん診療と骨の健康(Bone Health)」の講演。会場は帯広駅前のアパホテル。駅前にはホテルが15ぐらいあるみたいで、観光客?、ビジネスマン? が多い土地らしい。学生時代、池田町のワイン城、愛の国から幸福へ、えりーものはるーは−♪、などを友らとオレンジワーゲンに乗って訪れた懐かしい土地でもあるが、随分と様変わりした。帯広厚生病院の北大第二外科出身若手吉岡先生と昨年だったか、その前だったか、札幌の講演で会った時の「帯広にきっと行くからね」という約束が実現したものだ。帯広は道東地区の玄関口、乳がん診療に積極的に取り組む医師、認定看護師が、やっと成長してきた土地、聴衆はすごく熱心で、的を射た質問が多くあり、今後がとても楽しみである。空港は町の南20kmぐらいのところにあり、往復は広大な農地の中のまーーーーっすぐな道をひたすら走る。往きは、豊かな農地、いかにも北海道、雄大だ!!という明るい車内だったが、帰りのハイヤードライバーの、え−、そうなの? という、ちょっとぞっとするような怖い話を聞き、車内はやや暗いトーンに。怖いのでこれ以上、言えないけど、ここ帯広は、昔は北海のヒグマ、中川一郎、ちょっと前は息子の中川昭一、それに民主党の石川知裕、そして今は新党大地の鈴木宗男、路チュウの中川郁子と、どれもこれもお騒がせの議員の地盤。しかもTPPとかCIAとかKGBとかが絡んでいて・・・・、こわーい、ということで、日曜日の昼さがり、安堵の土地、浜松に戻ってきた。いろいろな事があったが成長できた一週間が過ぎ、それでも朝は来る、明日は、木俣新ちゃんがやってくる。

できる!! 街角がん診療 〔4〕


現在では、日本全国、どこの病院でも行われている外来抗がん剤治療であるが、当時は、がんの化学療法は入院して行うもの、病院によっては「無菌室」に患者を閉じ込めて抗がん剤点滴をしているところもあったのだ。学会で、外来抗がん剤治療の導入について発表したところ、会場にいた年配医師から「それは東京だから、国立がんセンターだからできること。田舎の一般病院では、無理な話だ。」と批判を受けたこともあった。東京ならばできる、田舎ではできない、というのもなんとも覇気のない話であるが、ここに、街角がん診療を展開するヒントがあったのである。(以下次号)

できる!! 街角がん診療 〔3〕


1999年、国立がんセンター中央病院では、現在の病棟完成を機に外来治療へ全面的に移行し、私が責任者を務めていた乳腺・腫瘍内科では、乳がん治療では転移性乳がん患者を対象としてパクリタキセル週1回点滴を開始した。この治療は、脱毛や手足のしびれは強いものの、吐き気はほとんどなく、奏効率の高い優れた治療として注目されていた。しかし、毎週点滴をしなくてはならないという不便さがあり、近在(東京都中央区、江東区、港区あたり)の住民にとっては好ましい治療だが、遠方に住む患者は簡単には利用出来ない。九州から毎週日曜日に飛行機で上京し、翌日、診察、点滴を受け、夕方にホテルに戻り、翌日帰省するという二泊三日ツアーを1年近くにわたり繰り返した患者もいた。遠来の患者の口からは感謝の言葉と同時に、地元にも外来治療ができる病院があればいいんだけどね、どうにかなりませんか、という話もよく聞かされた。(以下次号)

できる!! 街角がん診療(2)


外来抗がん剤治療の発展

国立がんセンター中央病院に勤務した間、外来抗がん剤治療を提供する通院治療センターでの業務や、電子カルテ導入に伴う外来外来抗がん剤治療システムの導入に携わった。1980年代の始め頃は、抗がん剤治療は長期入院して実施していた。たとえば、卵巣がん治療のCAP(シクロフォスファミド+アドリアマイシン+シスプラチン)を3週間毎に合計6回の治療では、点滴はセデーションをかけて行い、患者は4ヶ月間ずっと入院という状態であった。1985年頃から、乳がんのCMFなどを対象に外来抗がん剤治療が開始されたが、アドリマイシンやシスプラチンを含むレジメンは強烈な嘔吐のため数日間の入院が必要であった。1990年代に入ると、カイトリルなどの効果的な制吐剤が発売され、抗がん剤治療は、外来治療へと急速に移行していった。(以下次号)

できる!! 街角がん診療 


郷里の浜松で腫瘍内科診療所「浜松オンコロジーセンター」を開設したのが2005年の5月、診療理念を表1のように定めた1。仕事や子育てをしながら外来に通って抗がん剤治療をうける患者、がん治療に関するセカンドオピニオンを求めて遠方からやってくる患者、自宅でがんの末期を過される患者を対象としたがん診療や、がん検診、がん予防相談と、近隣の方々の一般内科診療を行ない10年の歳月が流れた。診療の中核は、やはり、私の専門とする腫瘍内科領域であるがんの内科的治療、すなわち薬物療法である(以下次号)