若者よ あご足付きは当たり前 と思うなかれ


医師の世界では講演会とか、しゃんしゃん大会(注:企業が新薬を大々的に宣伝し質問なんかするのはやぼで大拍手でしゃんしゃんと発売を祝うふりをする集まり)などは、食事と交通費、タクシーチケットが製薬企業から提供されるのが当たり前、というカルチャーがあります。医師側にも勉強は他人の金でやるもの、やってやるものという風潮です。最近はそれでも周囲の目を意識してか、製薬企業側も製薬協のプロモーションコードで、かつてあったような、目に余る程の接待攻勢はすっかり影をひそめていますが、勉強会に食事とか弁当がでるのが当たり前、業者がもってくる、という認識は、研修医のころから、空気のように、染みこんでいて、製薬企業のMRくんがへこへことやってきて、お弁当を差し出してくれる、ああそうですか、とそれが、デフォルトスタンダードのように、そういうものだ、と認識してして、ありがとう、でも、すいません、でも、こういうのは遠慮します、でもなく、当然という顔で箸をつけています。

大学の「拡大臨床研修管理委員会」で卒後研修のプログラムが配られました。見ると必修の「プライマリケア実践講座予定表」には、土曜日の12時から15時まで、様々な充実した講義が用意されており、研修医は6回の講座全てを聴講しなければならないのですが、12時から12時15分に「製薬会社からの薬剤に関する情報提供」とあります。私は、最初、これをみて「製薬会社からの情報提供について、節度と、健全な感性をもち接することを学ぶ」のかな、と思ったのですが、毎回、『12時から12時15分に「製薬会社からの薬剤に関する情報提供」』とあり、どうもおかしい、と思い質問すると、「これは、お弁当の提供です」と卒後教育センター長がお答えになりました。やっぱりね・・、「COIについては、どこかできちんと教育しているのですか?」と聞くと「それはここではなく、他のところで講義があるはずです。」とのお答え。心の底での「ちーがーうーだーろー!!」の叫びと共に、冷静に、笑顔で「このように、製薬企業がお弁当をだす、というのが、若いうちから当たり前のような環境を与えるとCOIについての感性が鈍ってしまうのではないか」という旨を、述べたところ、「検討してみます」とのお答えでした。倫理についての感性をきちっと身につけないといけない時期に、卒後教育センターのどなたもそのような倫理感を持ち合わせていないのでしょうか。ここの卒業生と仕事で付き合ってみると、なるほど、Beneficence、  Justice、 Respect to personsの倫理3原則ができていない医師ばかりであります。あご足付き、つまり、食事・弁当、交通費(タクチケ・新幹線)は製薬企業もち、が当たり前、という感性が、知らず知らずのうちにできあがり、無防備な若き医師たちは、製薬企業のしたたかなプロモーション戦略の毒牙に囚われてしまうのであります。

利己から利他へそして利己戻りして晩節を汚す


生まれたばかりの赤ちゃんに自分の事を自分でしなさい といっても無理です。成長するにつれ自分の事は自分でできるようになり 小学生ぐらいになると他の子の事も考えなさい、というように社会性を学び利己と利他の葛藤も経験します。中学性、高校生では生徒会活動とかボーイスカウト、ガールスカウト活動やクラブ活動を通じて利他意識をしっかりと身につけるような教育、指導をうけ、社会人としての活動にふれながら成長していきます。成人の日をむかえて、キミもオトナのナカマイリと言われるけれどなんの事だが、ピンとこない不完全なオトナが増えます。でも、社会に揉まれて、様々な経験をして40歳、50歳と、利他を発揮する成熟したオトナとして社会の骨組みを支えて、社会の充実に貢献する年代を迎えます。60歳台半ばを過ぎると、頭も固くなる、主張を曲げない、ひとが多くなります。時に、理性も衰え破廉恥行為で晩節を汚すひと、利己に回帰して晩節を汚す人、そのうち認知症が進み、利己すら全うできない身の上になり、介護保険で「おしもの世話」をうけ、徘徊して鉄道にはねられたりと、社会性も失われてこの世を去っていく。これが人間のライフサイクルと言えましょう。

春は名のみの 風の寒さや


春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず

早春賦の季節です。私ども今年1月31日に「個別指導」というのがあって正月そうそうからその準備に追われました。厳寒の日々は、事務作業に没頭し、ほぼ、無事に当局の指導も終わり、気づいたら立春を過ぎ、暖かい春を待つ、浮き浮きした季節を迎えていました。個別指導で学んだこと、それは、常に客観性を保つことです。「客」とは他人、他人が「観て」も、大丈夫なこと 「主観」、「主(あるじ)=自分」だけの視点では正しいことから外れてしまう場合があるので、ときどき、客観 をあえて求めることが大切 ということですね。

「科学的」ということも「客観性」、「透明性」と通じることがあります。「透明」ということは、360度、どこから観ても、よく見える、裏がない、影がない、暗闇がない、ということです。夜は暗く、昼間は明るい。当たり前のことですが、明るく、客観的で、透明であること、誰の目からみても正しい事 それが求められる毎日である、ということです

夜明け前の暗闇は朝の光を待ち望む時間です。立春、春分と春の足音が近づき、国立がんセンター同総会、西村正治先生定年祝いと、春は、出会いと別れのセレモニーもあります。3月の終わりには、人の移動、桜花の咲き誇るエネルギーと華やかさを感じ、そして、このあたりでは5月3-5日の「浜松祭」の準備が始まります。かとうかんじさん、久しぶりで浜松に遊びにきませんか? りすとらまだか、あ●と●ま●か そんな季節になりました。