日本人特殊論の余韻


私が駆け出しの頃(注:1980年代)、日本人は抗がん剤に弱い、日本人は臨床試験に向いていない、肉を毎日食べている欧米人とは違って日本人は繊細だ、欧米人は高見山や小錦のようにお腹の中は脂肪だらけだから、日本人と同じようにはリンパ節郭清はできない・・・という論調が腫瘍学の領域では当たり前のように語られていました。なので抗がん剤の投与量も少なく、使用する薬剤も経口薬など欧米では使用されていない薬剤が使われ、臨床試験は非倫理的と信じられていました。そんな日本人特殊論が当たり前のように受け入れられていた頃、私は妻と共にアメリカで5年ちょっと生活しました。研究室には台湾人、ギリシャ人、中国人、インド人もいて、どの国の友も上記のような特殊論を唱える人はいませんでした。帰国して阿部薫先生から臨床試験やトランスレーショナル研究の指導をうけ、大規模な臨床試験の計画(design)、試験の遂行(conduct)、解析(analysis)、公表(publication)を任されましたが、その頃は、日本人特殊論で凝り固まった日本の医師たちとの戦いの連続の日々でした。そんなこんなの戦いを続けつつ、我が国でも「グローバル・トライアル」(注:新しく開発された薬剤、例えば2000年代初頭のハーセプチンなどの臨床試験を、ヨーロッパ諸国、アメリカと同時に地球(グローブ)規模で同じ臨床試験に日本人被験者も登録すること)が当たり前になってきた昨今であります。日本人と欧米人は「猿と犬」ほどの違いがあるほどに、日本人を特殊扱いしていた時代はセピア色の歴史の彼方に遠ざかっています、と思いきや、未だに「日本人ではどうですか?」と言うような疑問があるらしく、グローバル・トライアルで得られたデータのうちから、日本人のデータだけを切り取り、日本人でも欧米人と同じ結果が得られました、という発表を先日聞きました。なんで、そんな間抜けなことをするのでしょうか? チコちゃんは知っています。