カヌーに乗って


海の日の連休は、台湾にいる甥の竜太郎が帰国しており「亨おじちゃん、カヌーはやらないの?」と言うので、じゃあやろう、ということで、久し振りでカヌーに乗った。正確に言うと、ファルトボートといって、組み立て式のカヤックである。カヌーは2台目、最初のカヌーは、がんセンターのレジデントとして東京に行った時に購入した一人乗り。芦ノ湖などで乗っていたが二人乗りがほしくて10年ぐらい前に、フランスの「ノウチレイ(NAUTIRAID)社」製の二人乗りを購入した。全長5メートル、木製のフレームを外側のカヌーの形をしたスキンのなかから押し広げるように組み立てるもの。カタログでは組み立てに要する時間は10分となっているが、実際に組み立ててみると炎天下、汗だくで1時間ぐらいはかかる。購入した直後には、小学生だった息子の卓と一緒に、浜名湖、気田川(けたがわ)、英虞湾などで、毎年、年に数回は乗っていた。しかし、浜松オンコロジーセンターを開設した3年前からは、忙しくて、貧しくて、カヌーはほったらかしになっていた。今年はどこでやろうかなと考えたが、佐鳴湖(注:浜松市の西にある淡水湖、BOD:Biological Oxygen Demand(生物学的酸素要求量)日本一、つまり、日本一きちゃない湖、子供のころは底なし沼と恐れていたが、浜松医大、静大、浜松西高などのボート部の漕艇場がある)では汚いし、天竜川や気田川では、ちょっと怖いし、ということで、航行計画としては、「浜名湖の弁天島の裏の浜名湖大橋の駐車場脇の砂浜から出港し、昨年浜名湖花博が開催された会場跡地までの往復ツーリング」として、9時半頃に組立開始、11時頃に出発した。比較的風、波が強く、思うように進まない。また、舵の調整が不完全で、直進しにくくって苦労、苦労。さらに悪いことに、木のフレームが乾いていたためか、スターン(後ろ)からまたがって乗ろうとしたら、リブの1本がぽきっとおれた。それで、計画を変更して、少し出て橋をくぐったところの浅瀬でカヌーを止め、潮干狩りとした。これが、実は、おおあたりで、3cm以上もある大型のアサリがザクザクとれた。あっという間に2-3時間がたち、数キロの貝がとれた。近くをやかましく、うっとうしく、けたたましく走り回るジェットスキーの馬鹿どもは、自然の中にひたりきる、あるいは自然の一部になりきることのできるカヌーの魅力はわかるまい。エコロジーが一つのブームになっている昨今、カヌーの人気はきっと高まっているだろうとおもいきや、翌日、壊れた部品を探しに、神田~お茶の水界隈を歩いて、昔、カヌーを売っていた店を訪ねたが、驚いたことに、すべてカヌーは扱っていませんと。スノーボードやマウンテンバイクの専門店に衣替えしていた。インターネットで探しても、ノウチレイ社製のカヌーは、もはや日本には輸入されていないらしい。構造改革のせいかどうかはわからないけれど、日本から心の余裕が失われてしまったようで、さびしい限りだ。
 
98カヌー
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父を亡くして・・・


74日、午前635分、父、渡辺登が蜆塚の自宅で静かに息を引き取りました。享年92歳でした。私が息子として、主治医として最期を看取りました。父は内科医として昭和28年、祖父の医院を継承しました。まさに地域医療に粉骨砕身の人生だったと思います。毎日、午後になると、運転手「いっつぁん」が運転する緑色のフォルクスワーゲンで往診に出かました。当時は、病院も診療所も少なかったので、父は月曜日は「東方面」、火曜日は「南方面」、水曜日は「東方面」、木曜日は「北方面」、金曜日は「中心地」というようにうちから見て患者さんの家の方向別にわけて往診をしていました。東方面は、現在の磐田、掛川あたりまで、北は佐久間あたりまで、西は湖西ぐらい、南は遠州灘近くまで、かなり広い範囲に行っていたようです。幼稚園から帰宅して往診の車に乗っかるのが私にとっても毎日の楽しみでした。農家に往診に行くととうもろこしやスイカをもらい、金曜日には「まるたや」の喫茶店でチョコレートパフェを食べ車の中で寝てしまう、そんな毎日を過ごしていました。父は6時過ぎに往診から帰ると730分ごろまで夜の外来をやり、その後で家族で夕食でした。私が小学校に上がるころには、父は医師会の諸先生方と「浜松市医師会中央病院」を設立する準備していました。毎晩のように医師会の先生方が我が家に集まり、たばこの煙が充満する部屋で、遅くまで会議のような、打ち合わせのような話し会いをしておりました。医師会中央病院が佐鳴湖のほとりにできたのが、私が小学校の低学年のころでしたでしょうか、日本で初めてのオープンシステム病院として注目を集めたようで、父は、その活動を紹介するために、あちこちに講演に出かけていました。その後も、医師会の先生方との話し合いは続き、医師会中央病院は、現在の県西部浜松医療センターに発展したわけです。父も65を過ぎたあたりから、医師会の活動は、若い人に任せた方がいい、というようなことを言うようになりました。私は医学部を卒業するころで、少しは地域医療の実態がわかるようになっていました。父が誠意をもって招いてきた院長に公衆の面前で胸倉をつかまれて、オープンシステムは失敗だったと罵られたという話を人から聞いたことがありました。そんなことが原因であったかどうかわかりませんが、父は、医療センターのオープンシステムを積極的に利用する一医師会員という立場に徹し、毎週の診療協議会には欠かさず出席していましたが、医師会の活動からはフェードアウトしていったようでした。今、父を失ってあらためて父の足跡は大きかったと思います。しかし、何かを残すとか、名声を刻むとかいうことには全く興味がなかった父でしたら、葬儀でも世俗的な挨拶などはどなたにも依頼しませんでしたが、それでよかったと思いました。