11月19日に開催したメディアフォーラムでは、「ガイドラインは社会を変えられるか」というテーマで多数のメディアの方々にお集まり頂き、活発な討論が展開されました。当初、「ガイドラインは行政を変えられるか」というテーマでどうか、ということで準備を開始したのですが、向井博文先生から「もっと大事なことをとりあげましょう、行政なんて、どうせ誰も来やしないし、来たって2-3年で担当者が変更になってしまうでしょ。肝心なことは、どうしたらよいがん医療を患者に提供するかということだから」との提案があり、そのように変えました。私としては、ぼやき漫才のように「責任者出てこーい」(ふる~い) という感じで、行政の不作為、無作為、非作為、無能力を指摘してどうにかならぬか、ということを考えたのですが、社会派向井先生の方針の方が建設的だねって感じ。10年以上前から、メディアセミナーとかでお世話になってきた高石憙さんには、事前の準備から当日のセッティング、さらに直前にお願いして司会までして頂き感謝しております。フォーラムでは、その後の懇親会も含めて、いろいろな話がでて、とても楽しかったし、中身も濃かったように思います。重鎮の伊藤正浩さん、大野善三さんもいろいろと質問してくださり、楽しかった!と言ってくれました。また、フォーラムでは、鶴(赤)の一声で開催されるようになった委員会がまた、別の鶴(茶色)の一声で突如中止になってしまった話とか、ハーセプチンが術後治療としての使用が承認されたのは2008年なのに、2005年にASCOで劇的な効果が発表されてから2007年までの間に日本でも「適正使用」が一気に広がった話とか、いろいろと興味深い話が掘り起こされた。ハーセプチンの話は、薬剤の力量もあるが、全国で心ある専門家(注:私もここに入る)が地道に審査側、行政側に説明、説得したことが功を奏したと思いますね。また、ある協議会で垣添さんが、鶴(腹黒)の一声だか、わがままな患者団体の自己主張だかで、突如委員長が解任されそう、というような、ばかばかしい、次元の低い話も聞きましたが、興味深か~い。今回のメディアフォーラムで学んだことは、「一時的に力をもった為政者の鶴の一声による活動は一時的なガス抜きの効果すらもたらさない。むしろ、蛙の合唱のように、良識のある人々がそれぞれの軸足をきちんと保ち、責任ある発言、行動をすることが、正しく社会を変える原動力になる、ということです。ということで、このメディアフォーラムは、「蛙の歌がきこえてくるよ、げっげっげっげっげろげろげろげろぱっぱっぱっ」を続けてい行こうと思います。ピンクかえるリボンも考えたい。
カテゴリー: 腫瘍内科医
セカンドオピニオンのクレーム
今まで、セカンドオピニオンについて、後になってけしからん、とクレームがついたことが二回あった。二回とも本人からではなくって近い家族から。もっと言うと患者と一心同体のような姉妹からだ。いずれもセカンドオピニオンにはその姉妹は同席せず、しかも患者一人での受診である。一人は「高すぎる。何も診療していない、薬の一つもだしていないのに。」というもの。セカンドオピニオンはそういうものだし、お見当違いな気がする。もう一人は「言葉づかいに気をつけろ、本人がおちこんでいるじゃないか」というもの。確かに患者の状況は厳しいのだが、治療の目標はきちんと理解してもらわなればならないし、できることと出来ないことがあるのだから、それはきちんと話さなくてはいけないと思っている。その患者は帰る時には納得した様子ではあったが家に帰って妹といろいろと話したのだろう。本人から電話が来るのならわかるが家族からというと、場合によっては伝言ゲームのようになってしまう。クレ―ムがついたら、以降、そういうことがないように全力を尽くさなくてはいけないのは確かだ。阿部薫先生からも「例外を作るな!」と厳しく指導を受けた。もうひとつの解決策としては、かならず家族、友人など患者と近い立場の人も同席してもらうこと。何人でもいいので同席して、その場で、患者―医師間の微妙なやり取りを感じてほしいと思う。診察室での会話はとても繊細だし、言った、言わないという話でもめるような状況でもない。家族を愛する気持ちはだれも同じだし、がんが転移しても希望をもって中腰で臨む、ということは大切なことである。中腰という微妙な感覚もその場にいると意外とすんなり伝わるものである。
医療者の沈黙
イレッサの副作用は、まるで医師の怠慢、行政の傲慢であるかのような解説が読売新聞(10月30日)に載っていた。肺癌が再発し、余命半年と言われた男性がイレッサを内服した後、間質性肺炎で苦しんだ。しかし、イレッサが効いたのだろうか、その男性は8年後の現在も生存しているという。非小細肺癌が再発した患者としては、極めて稀な状況である。当時、マスコミは「薬害」というスタンスで取りえ上げようとしていた。新聞の解説では、テレビで厚生労働省の担当者が、この問題について「教訓はない」と言っていたのをみて、この患者は、訴訟に加わることを決意したという。まるで、医学界は、イレッサを夢の抗がん剤ともてはやし、まったく反省もないので、マスコミ、患者団体が、行動を起こした結果、安全策が講じられたと言わんばかりの論調だ。どうして、こんな浅薄な解説が医療情報部、高梨ゆき子記者によりしかも写真入りで掲載されているのだろうか。それは、医師が冷静に反論しないから、分かりやすく解説しないからなのか、それとも、マスコミが医師、行政などをたたけば、それだけ世間の支持を得られるという社会の風潮によるものだろうか。
私は、イレッサの開発から現在に至るまでの紆余曲折を冷静に見つめてきたが、これほど日本のがん医療界の努力と学習と反省が結実した事例はおそらく初めてではないかと思う。
イレッサはEGF受容体の働きを抑えるという働きがある。EGFとは、Epidermal Growth Factor(表皮成長因子)。1960年、Vanderbilt大学のStanley Cohen博士が、ネズミ唾液腺の抽出物を、生まれたばかりの子ネズミに注射すると、歯が早く生える、眼が早く開く、ということから発見した成長促進物質だ。Stanley Cohen博士は、1987年にノーベル医学・生理学賞を受賞した。当時、私はVanderbilt大学に留学しており、EGFの皮膚創傷治癒促進に関する研究に少しかかわっていたので、Stanley Cohen博士の家にも遊びに行ったことがある。EGF受容体が発見されたのが1985年頃、その後、EGF受容体に似ている物質が他に3種あり、EGRが、HER1となり、その他3種がHER2、HER3、HER4と呼ばれるようになった。EGF受容体の働きを抑えるイレッサの治験は、世界に先駆けて日本で実施された。西條先生、福岡先生ら、世界初を目指す熱きオンコロジストが試験組織の中心となり、治験を推進した。また、藤原先生が当時、医薬品機構にいて行政サイドで開発に尽力した。確かに、治験の段階で、数例、間質性肺炎様の症状が発症したが、そもそも肺に重い病を持つ肺癌患者が対象なので、その時点ではイレッサが原因なのか、それとも肺癌が原因なのか、分かりにくいということもあったのかもしれない。皮膚は扁平上皮なので、非小細胞肺癌のうち、イレッサは扁平上皮癌に効くと期待されたが、治験が進むにつれて、むしろ、腺癌の方が効くことが明らかになった。また、イレッサの効果は、従来の抗癌剤とはまるで異なり、効く人には1年2年と長い期間持続すると言うことも経験された。そして、2002年1月、期待とある種の興奮の中で厚生労働省に承認申請が提出された。通常、申請から承認までは1年以上はかかるものだが、イレッサは、なっなんと6カ月後の2002年7月に承認されたのだ。しかも、この6ヵ月間はイレッサの薬剤費だけは自費で負担すれば使える、という超特例的措置が取られたのには驚きだった。しかし、だ、この6ヶ月が、まるで野放し状態になったのであった。ここは、医療界は深く反省すべきである。状況はこうだ。1錠当たり8000円払えば、打つ手がないといわれた末期のがん患者に、しかも、肺癌だろうが、大腸癌だろうが、乳癌だろうが、胃癌だろうが、夢の薬が手に入るらしい、ということで、癌治療医だろうが、癌のことはあまりよくしらない医師だろうがイレッサを処方した。がん患者が知り合いの歯科医に頼んで処方してもらった、という噂もあった。このような状況で死亡者がたくさん出たということだが、イレッサの副作用の患者もいただろうが、末期の癌で死亡した患者も相当数いたのは確実である。新薬がでると、わらをもすがる気持ちで、それを求める、という気持ちは、誰にでもあるだろう。ただ、コントロール不能に陥った6カ月間で、今まで、「夢のくすり」ともてはやしていたマスコミも、がらりと態度を変え「薬害の犯人探し」というような論調になった。当時、国立がんセンター中央病院に在籍していた私はイレッサ開発の当事者ではなかったが、「副作用死はなぜ防げなかったか」を特集したNHKの報道対談番組に出演したことがあった。もともと肺に病気のある状況であること、コントロールできない状況で多数の患者に使われたこと、などが原因という話はしたような気がする。その後、治験成績のサブセット解析で、腺癌、女性、非喫煙者、アジア人でイレッサが効くことが明らかになった。また、男性、喫煙者、高齢者、で、間質性肺炎発症の可能性が高い、ということも明らかになったのだ。これを明らかにしたのは、誰だ? そう、医師らがこつこつとデータを積み重ね、観察し、あぶりだしたのではないだろうか? 高梨さん。また、記事には、「特定の遺伝子に変異があるタイプに今では使用する」のが一般化した、とあるが、EGF受容体遺伝子変異とイレッサあるいは類縁薬のタルセバの効果との関係が明らかになってきたのは、2004年以降のことであり、それも、国立がんセンターなどの医師の貢献が大きいのである。はじめから、どんな患者にどの治療が効くかということがわかっているわけではない、ということは、なにもイレッサだけの話ではない。クレイグ・ヘンダーソン博士は、最近の総論で「手術でも、ホルモン剤でも、化学療法でも、最初は、全患者を対象に行われていたが、10-20年の間に、次第に、どのような患者にとりわけ効果があるか、ということが分かってきて、だんだん、対象が絞られるようになるという歴史を繰り返している」と言っている。イレッサの場合にも、最初は、扁平上皮癌の患者に効くのではと予想されたのが、全く異なった患者に効果があることがわかり、それを遺伝子検査で事前に予測できるようになるまでには、数年の歳月と、患者の犠牲を費やしたものの、比較的短期間で確定できた。がん医療界の努力と学習と反省が確実に結実した事例として記憶に残るだろう。イレッサの間質性肺炎はその後の集計では5%程度に発症する副作用であることが明らかとなり、他の薬剤と比べて、とくに高い、ということはないし、また、イレッサの教訓から、肺毒性に対して目を向けるということが一般化したことが、最近の分子標的薬剤がスムーズに導入されている理由と考えてもよいだろう。しかし、読売新聞の解説で言っている、4週間の入院とか、全例登録などの外形的な対応は、ほとんど役に立っていないことを、高梨ゆき子は知らないのだ。
無駄な敷居排除計画
ある先生から一般向け講演を頼まれて二つ返事で引き受けた。しばらくたって、ある先生からスポンサーのヘロヘロラリーがそのうち挨拶に行くからという。そういう場合、まず地元のMRがきて、近いうちに上司とともに御挨拶に伺いますのでアポを、ということでめんどくさいけど、ではいついつということでと、それでアポの日になると3-4人でぞろぞろとやってくる。中には直前まで煙草を吸っていたような上司もいて診察室のCO濃度が20ppmぐらいになる。がまんしてよろしくと挨拶し、なるべく早く帰ってもらう。しばらくして今度はMRが学術担当とかいう眼付の鋭いのを連れてくる。目付としてくるわけだが、「弊社はコンプライアンスを重視する立場から云々カンヌン」と勝手な屁理屈を言い始める。それで言いたいのは、「今度の先生のお話の中で弊社製品について触れることがある場合、用法用量などが海外と違っているとそれは規定違反になるため事前に発表内容を弊社でチェックさせていただくことになっており、云々カンヌン・・」。ばかやろう、お前に言われる筋合いの話じゃないだろう、だいたい、お前ん所の薬の話なんか、するつもりは最初からないわけだし、そもそも○○先生から頼まれたからひきうけたんだし、そんなうるさいことをつべこべ言うならこんどからお前んとこがスポンサーなら講演の話は断るからなと、小さい、小さあい声で、誰にも聞こえないようように、唇だけで話して、「スライドは当日朝に完成するので、今のところ何を話すかは決めていません。」と答え、早々にお引き取り頂いた。だいたい、社内規定だか、業界規定だか、勝手に無駄な取り決めをしておいて、それが100%正しいことのように、また、そのようなくだらない無駄な規定を守っているというコンプライアントな自分にほれぼれとしているような間抜けな担当者が最近業界には増えた。どうでもいいことはやめよう、もっと本質を見極めよう、無駄な敷居は排除しよう!! 日本の国力が減退している理由は、このような、馬鹿な奴が決めた無意味な取り決めに間抜けな奴が何も考えずに黙々と従うという姿勢にあるのではないか、と最近つくづく思う。特にイライラロンリーやリストラマダカ、ハナクソオミソクラインといった外資系と言われる企業の社員たちはまるで植民地か猿の惑星のように、自分たちの頭で考えることをやめてしまって死んだ目でさまよっているのだ。
-ologyが違うなあ
昨日は静岡県大腸癌化学療法研究会というのがあって一般演題に対するコメンテーターとして参加した。静岡県では大腸がんは未だに外科医の牙城、しかし薬物療法が急速に浸透してきている現在、外科医が(見よう見まねで)薬物療法に取り組んでいる状況だ。しかし、われわれからみると、え~、なんでえ~、(ムンクの叫び)、信じられな~い、というような議論がまかり通っている。そのため、コメントもついつい過激になる。転移再発大腸癌に対して薬物療法がそれなりの効果を発揮しているのに、残った腫瘍を手術で取る、という文化がまかり通っているのが理解できない。技術的に取れる、切れる、ということが予後を改善する、という確証はまったくない。なのに、「コンバージョン」という表現で手術をすることを正当化しようとしている。「技術的可能」だが「生物学的無謀」というように感じる。どうも学問、つまりオロジー(-ology) が違うような気がする。
コメンテーターとして次の問題を提起した。
薬物療法がよく効く症例が増えてくると、どのようなことがおきるでしょうか。以下の記載のうちから正しいものを選びなさい。
(1) 大腸癌が転移してもQOLの高い生活を送ることのできる患者がふえる。
(2) 外科手術の重要性がますます高くなる。
(3) 外科手術がだんだん不要になってくる。
(4) 消化器外科医、腫瘍内科医、看護師、薬剤師などによる患者中心のチーム医療がますます重要になる。
麻薬って言わなきゃあだめでしょうか?
土日は第7回乳癌学会中部地方会が38度を超える猛暑の名古屋で開催された。企画は岩田広治先生が昨年からいろいろと考えていたようでかなり趣向を凝らした良いものだった。また、運営も愛知県がんセンターのスタッフの皆さん中心にウグイス嬢までこなし本格的でよろしかったと思う。昨年、浜松で開催した第6回のテーマ「すそのを広げよう、中部乳癌診療」をうけたリレーメッセージで「みんなで語ろう、乳がん」どおり、いろいろと語った二日間であった。
二日目の模擬カンファレンスで感じたこと・・。毎週愛知県がんセンターで開催されているカンファレンスの舞台再現版である。アメリカ型タイタニック病院の仕組みを模倣しているのかもしれないが、病棟担当ナース、外来担当ナース、メディカルソシアルワーカー、薬剤師、がん看護専門ナース、担当医、退院調整ナースなど、関与者が多すぎる。話のつっこみが甘い。看護師1名、薬剤師1名、医師1名、事務担当1名で十分にこなせる内容だろう。がん患者と介護保険、ケアマネージャーとの問題についても認識がちょっとゆるいのではないかな、愛知県行政の業務仕分けの対象となるのではないかと思ってしまうぐらいだが、トレーニング病院としては致し方ないだろうか。疼痛の強い患者にオキシコンチンを勧めても断固拒否。どうしたらいいか、という部分では、患者は、数年前に自分の母親が麻薬を使用したら二日で亡くなったという記憶から、麻薬は絶対に使いたくないという話だが、みんなで、麻薬、麻薬、と連呼しているので、おかしいな、うちでは麻薬なんていちいち言っていないなあと思い、「麻薬って言わなきゃいけないんでしょうか、オキシコンチンという痛みどめという表現で、浜松オンコロジーセンターではやっていますが、どうして麻薬って言わなきゃいけないんでしょうか?」と尋ねた。壇上の薬剤師が「入院患者では薬袋に
と書いてあるので、麻薬と言わないわけにはいかないんです。」というので、「
って書かなきゃあいけないんでしょうか?、法的に決まっているんでしょうか?」と聞いたところ、会場から岐阜の薬剤師が答えて曰く、「
って書く必要はありません」と。確かに、麻薬というとどんなイメージがありますか、と一般の人に尋ねると「中毒になる」「やめられなくなる」「体が弱る」ので使わない方がいい、と答える人が多い。しかし、これらはすべて間違い!! 痛くてオキシコンチンを使っていた患者が抗癌剤や放射線照射が効いてオキシコンチンを減らしたり、やめたりした例は数多いし、中毒なんかになった人は会ったことがない。体が弱ることなんかもなく、むしろ、痛みがとれて、体が楽になって温泉に入ったようだ、と言っていた患者もいたし、よく眠れて食欲も出る、ということも多い。オキシコンチンの飲み始めには吐き気が出ることはあるけどノバミンやアタPなどの吐き気止めで抑えられるし、最初、眠くなることもあるけどだんだん慣れてくるし、便秘はセンナ、ピコスルファートなどでコントロールできる。この模擬患者の場合、お母さんが・・というけど、それはかなり昔の話で、当時の麻薬は、塩酸モルヒネをワインと砂糖水に溶かしたブロンプトンカクテルなど味も悪く吸収が不安定で、制吐剤なども同時に使うという知恵と技を持ち合わせた医師も少なかった時代だ。だから、当時の麻と今の麻は全然違うし、今は、医師も看護師も、いわゆる麻薬の使用にずっと手慣れているので、麻薬といわなきゃ始まらない、と言うもんでもなかろう、と、思う。しかし、会場からは、あの阿部恭子大先生も、「麻薬と言わなくてはいけないと思います。」とおっしゃったのですが、それでも食い下がり、「大昔の思い出とは決別して、別に麻薬、麻薬と騒がずに、オキノーム(野球賭博で謹慎を食らった力士はオキノウミ、似ているけどちょっと違うね)を1袋飲んでもらって、どう、痛みとれましたか、という感じで対応したってよいのではないか、と発言。今でもそう思っている。そう言えば、がんセンターにいた平賀一陽先生も昔、そんなことをおっしゃっていた。この麻薬、麻薬の話、会場にいた当院薬剤師の宮本さんに話したら、「ボクも聞かれたら、麻薬ですって言うけど、そうでなきゃあ、いちいち、麻薬、麻薬なんて言わないですよ。そんなんだったら、ナベルビンとか、抗癌剤使う時は、毒薬、毒薬って言わなくてはならないし、アリミデックス使う時は劇薬、劇薬っていわなくちゃいけないことになる。麻薬とか、毒薬とか、劇薬っていうのは単なる扱い上の分類の話だから、そんなこと、あまりこだわる必要はないと思いますよ。麻薬の管理はきちんとボクたちがやっているんだから、
なんてのも全く必要ないですよ。」と、実に理にかなった正解を与えてくれた。また、模擬患者の話に戻り、会場から発言した相原病院のリエゾン看護師、早川さんの心理分析はさすがにポイントを得ていたし、今までの経験から私も同じことを考えていたので大きく納得した次第だ。宮本くんや早川さんのように、ひとりで何役もこなせる実力派の医療者がチームにいれば、船頭多くして船、山に登るようなカンファレンスに時間を費やすこともないんだな、
とつくづく感じた。
10回を終えた市民講座
大衆迎合行政
先日、ある新聞社が「抗がん剤が高すぎる」ことをどう思うか?」 ということで取材にきた。取材者いわく「分子標的薬剤の医療費が高すぎて支払えない患者がいるので、厚労省は高額療養費の見直しを検討すると言っているが、どう思うか?」と。私はこの問題についてはちょっとうるさいのだ。そもそも、高い安いの基準は何なのか。いい薬なら多少高くっても頑張って支払うのが筋だし、へぼい薬ならいくら安くても誰も使わない。つまり、「これぐらいの価値があれば使おう」という値ごろ感が消費者の間で定着しているかどうか、ということである。高級車vs.大衆車、高性能冷蔵庫vs.普及型冷蔵庫など、多くの商品について、消費者には、いいものは高くてもしかたない、という、値ごろ感を持っている。これと同じように、いい薬ならば、高いのは当たり前であろう。しかし問題は、がん治療薬には、「命にかかわる」という性格があるので、車や、冷蔵庫などとはちょっとわけが違う。し、かし、単に高いからといって大衆迎合的に高額療養費の基準をいたずらに下げるのではなく、いい薬、いい医療にはお金がかかるものだ、という認識を広める努力も必要ではないだろうか。
もうひとつ、薬価の決定にはいくつかの問題がある。薬価を決定する場合に、新薬では開発に要した経費を積算する「原価積算方式」を用いる。治験にかかる費用などが合計されるわけだ。最近、治験はやたらとお金がかかる。提出書類が膨大で、モニターも不必要な施設訪問を繰り返し「過剰品質」として問題になっている。治験をもっとあっさり素早く実施すれば、ドラッグラグも高額医療もすべて解決するだろう。さらに治験契約費が施設ごとにばらばらで、とりわけお高いのがKRM大学だそうで、他病院の3-5倍の「ポイント」を要求してくるそうだ。治験の質、医師の質が高いというわけではなく、むしろべらぼうに低いのになぜこんな矛盾が起きるのか、取材してみたら、と取材者に助言してみた。
