国立がんセンター中央病院で乳がんの内科的治療に取り組み、少し軌道に乗り始めた頃のこと、「もっとこの領域で熱中する若い医師を増やさなくては」と考えた。しかし学会で、ある先生に「先生は何で外科の領域の乳がん治療に、物好きにも取り組んで見えるのでしょうか。乳がんのことは我々に任せ、先生には他にやることがあるのではないでしょうか?」と、助言とも、皮肉ともとれるようなコメントを頂いたことがあり、内科で乳がん?乳がんは外科の病気でしょ?というレスポンスが世間では一般的であった。
レジデントとして応募してきた若者の中に、「腫瘍内科で乳がんをやりたい」という男がいたので一生懸命に指導した。しかし、ある日突然、肺がんをやりたいと言い出した。よく聞くと「内科で乳がんやっていてもどこの病院にも就職できない。その点、肺がんなら、多くの病院でやっているから、就職口もたくさんある。」つまり、安定した将来を求めたいということだった。「乳がんの薬物療法は間口が広く、奥が深くて面白いし、腫瘍内科医の腕の見せ所が沢山ある。これからは、絶対乳がんのわかる内科医が必要とされる時代がくる。今は、でこぼこのあぜ道だが、一緒にこの道を進もうではないか。」と説得したが、「僕は、舗装された高速道路をかっこよく走っていきたいです」と、肺がんの道を進んでいった。実は、はじめから肺がんをやりたかったが、レジデントの定員がうまっていたので乳がん希望として採用された、ということがあとでわかった。その後の彼の消息は把握していない。
あの頃は、我が国の「腫瘍内科」は黎明期にあったように思う。国立がんセンター中央病院レジデントマニュアルを作ろうと、1995年の春、当時の総長、阿部薫先生に後押ししてもらい、売れるかどうかもわからぬ企画を医学書院に持ち込んだ。現役のレジデント諸君が執筆した拙い原稿を、勝俣範之、小野裕之、山本信之の「みつゆきくん」とよばれた3名のチーフレジデントといっしょに私の医長室で、毎晩毎晩、夜中まで書き直し、手を加えた。そのマニュアルも今年、第4版が出版され、発行部数も飛躍的に伸び、腫瘍内科に対する世の中のニーズも急速に高まってきている。みつゆきくんたちも、今や、それぞれの領域での第一人者に成長した。当時、世間では、化学療法は、入院して行うというのが一般的であった。国立がんセンター病院では、1985年に通院治療センターが開設され、CMF、低容量ACなどのレジメンは外来で行われてはいたが、本格的な化学療法は、まだまだおっかなびっくりという状況であった。1999年に術後化学療法を実施した患者のカルテを見ると、入院患者では、ACの投与量はアドリアマイシン60mg/m2、シクロフォスファミド600mg/m2という標準量が使用されていたが、外来では、AC(40/400)6サイクルとか、(50/500)5サイクル、そして、その後、徐々に(60/600)が使用されるようになっていった。2000年から開始したNSASBC-02試験のレジメンも、1999年頃の計画段階では、AC(50/500)5サイクルという提案もした。しかし、「どうせ試験をやるのなら、国際的にも標準とされているAC(60/600)でやるほうがよいでしょう」と助言してくださったのは、群馬県立がんセンターの木村盛彦先生であった。今では、外来化学療法も「熱が出なければ採血する必要なし、知らぬがほっとけ、です」と、ちょっと無謀ではないか、渡辺君、と慎重な先生からは、おしかりを受けるようなことを全国を回って助言している私であるが、振り返って10年の間には、試行錯誤の日々もあったということをあらためて思い出す。忘れえぬ時代である。
「緩和的化学療法(palliative chemotherapy)」という概念を実感できたのもこの頃であった。1999年1月、34才の女性が、私の外来を救急車で受診した。ストレッチャーに乗り、酸素を吸入している。紹介状によると、乳癌で、骨、肺、胸膜(胸水)、リンパ節、肝臓に転移があり、様々な治療をやってきたが、万策尽き、余命1か月と説明したところ、国立がんセンターに行きたい、という本人の希望、とのことであった。状態は悪い。ご本人は外来で次のような希望をはっきりとおっしゃった。「3月17日に長男の幼稚園の卒園式がある。今、かかっている病院では、それまでもたないと言われた。もし、なんか治療があって、卒園式に出られるのなら、私は国立がんセンターで治療を受けたい。」と。「胸水を抜いて、酸素を吸入すればどうにかなるかも知れない、抗がん剤治療は可能だが、やってみないと効果がでるかどうかは、わからない」と説明し、とにかくやってみましょう、ということで入院となった。入院の翌日、たまたま来日していたメモリアルスローンケタリングがんセンターDr.Andy Sidemanが国立がんセンターを訪れることになっていたので、病棟回診をしてもらい、レジデントの清水千佳子先生にこの症例を提示をしてもらった。Dr.Seidemanは丁寧に患者を診察すると「状態は悪いが、症状緩和が目標であり、使えるのならパクリタキセルの週1回点滴はどうだろうか」と提案してくれた。我々は、数ヶ月前に抄読会で読んだJCOに掲載された彼の論文「Dose-dense therapy with weekly 1-hour paclitaxel infusions in the treatment of metastatic breast cancer」を覚えていた。早速、翌日から治療を開始した。一時期、病状は極限まで悪化し「DNR(Do Not Resuscitate) Order」が出されたが、2週目頃から、みるみる状態が改善、呼吸困難が軽快し、酸素なしでも歩行できるようになった。4週間にはCEAが著明に低下した。医師たちは喜んだ。3月9日退院、外来でパクリタキセルを続けた。患者は希望通り3月17日卒園式に参列することができた。さらに、4月5日の入学式にも夫婦そろって参列できた。4月の半ば過ぎごろから、リンパ管性肺転移が再度増悪、肝転移も進行し黄疸が出現した。本人のご希望に沿って地元の病院への入院を依頼した。連休明けの5月7日、今朝、ご家族に見守られ、静かに息を引き取ったという連絡をご主人から頂いた。お礼も言ってくれた。奥さんは、病床の枕元においた、満開の桜の下、親子3人でとった入学式の写真をいつもうれしそうに眺めていたそうだ。忘れえぬ症例である。
がん対策基本計画ができた、と言うことで、毎日新聞記者の永山悦子さんが先日取材にきた。記事は5月31日の朝刊に掲載された。なかなか、よくまとまっていて、ポイントを突いた記事であったと思う。取材でお話したことで、記事にならなかったことが二つある。一つは、上記のように1997年の時点ですでに、腫瘍内科の育成に取り組んでおり、腫瘍内科医の育成は確実に進んでいること。人を育てるということは、桃栗三年柿八年よりも、もっと時間がかかる。即席ではろくな人間は育たない。もう一つ、患者団体にあまり迎合する必要はないのではないか、ということだ。がん対策基本計画の議事録を読むと、患者団体が、各自の主張を繰り広げ、それにいちいち座長が対応している。マスコミなどでも、がん患者であることを告白することが流行っているが、我々は、常に診療の現場でがん患者の生の声を聞いている。治療でも、診断でも、できることはできる、できないことはできない、しょうがないことはしょうがない、済んだことは済んだこと、といった現実的な切り分けを如何に患者に説明し、具体的な対応を考えていくか、ということは、日々の診療での重要な課題としてすべての腫瘍内科医は既に取り組んでいるのである。なにも、患者団体に指摘されるまでもないことである。
今、私はASCO参加のためシカゴにいる。今回はNSASBC01試験の結果を発表する。データをまとめてみて、2-3年の時点での打ち切り症例があまりに多いのにあらためて驚いた。これは患者団体「イ○ア○ォー」による理不尽な妨害工作によるものだ。試験に参加した患者が中止を申し出たり、試験に参加していた病院が参加を取り消したりと、さんざんな目に遭わされた。この経験が私にとって大きなトラウマとなっていることは事実、だから、なおさら、自己中心的な患者団体のいい加減な主張には、今後も厳しく対応しなくてはならないと思っている。