看取り・見送り論争


2月なかばに医療センターで「看取り、見送りに主治医はどのように対応するかについて意見交換会」がありました。きっかけは医療センターで亡くなった患者遺族から投書があったことです。私は院外主治医という立場で、そのような意見交換会にはほとんど参加したことはありません。しかし、今回のテーマは考えるところがあったので参加しました。私の考えは(1)看取りや見送りは主治医として関与するのが当たり前である、(2)業務というよりは医師として患者、家族にかかわった人間としての気持ちの表現でもある、(3)先輩医師の行動をみて学び、先輩医師から伝承された技術も活用するのがよい、(4)看取り、見送りは、後輩医師が先輩の背中を見て学ぶべき行動学であり、伝承すべき文化である、に集約されます。意見交換会では医長クラス4−5人が意見を言いました。驚いたことに、一人をのぞいて、「看取りは当直医師に任せるべき、見送りは不要」との意見でした。医長クラスは皆、私と同年代か少し若手で、新設の単科医科大学卒業です。なので、背中を見せて後輩を育てることのできる先輩が身近にいなかったということもあるのでしょうか。文化としての伝承がなされていないため、私と同世代の医師たちが、後輩に向けて背中を見せて率先垂範することができないのではないでしょうか。看護部長も、「昔は先輩医師の背中をみて、ということがありましたが、今はそういう時代ではありません。」と言っていました。また、医師の中には、「死んだ患者よりも生きている患者が重要」とか、「東京あたりの病院では、看取りは当直医の業務、見送りはしない、ということをルールとしているところもあると聞く」、「翌日の業務に支障を来たし、リスク管理の観点からは、夜間の看取りは、当直医師の業務とすべきだ」など、背筋が凍り付くような意見の主張もありました。やや年配医師のフロアからの意見「死亡診断書をあらかじめ書いておくような無神経なことはするべきではない」に、「なんでそれがだめなんですか!? 当直医が経過を全部確認することなどできないわけだし、正確に記載できるのは主治医だ」と強烈に反対意見を主張する若手医師もいました。確かに業務としては合理的かも知れませんが、心情的にはなにか殺伐としたものを感じます。私もやはり、主治医が死亡確認の後、診断書用紙二枚とカーボン紙を引き出しから取り出し、カルテを確認しながら経過をまとめ丁寧な字で記載するのが常識的だと思いますけどね。そろそろ会も終わりに近づき、ああ、心をどこかに置き忘れてきた人々よ、生まれた時が悪いーのかー、それとも俺が悪いーのかーと嘆かわしい気持ちになっておりまました。すると司会の先生から、渡辺先生、ご意見はありますか、と水を向けられましたので上記の(1)から(4)までを述べました。最後にコメントされた院長は穏やかな口調で、医師として、また管理者としてすばらしい発言をされ、病院の背骨を明確にされました。それでやっと少し救われた気持ちになり、アウトランダーで雨上がりの夜道を帰宅いたしました。

投稿者: 渡辺 亨

腫瘍内科医の第一人者と言われて久しい。一番いいがん治療を多くの人に届けるにはどうしたらいいのか。郷里浜松を拠点に、ひとり言なのか、ぼやきなのか、読んでますよと言われると肩に力が入るのでああそうですか、程度のごあいさつを。

“看取り・見送り論争” への 3 件のフィードバック

  1. 3年前に亡くなった父の場合、悲しみと後悔でいっぱいだった私にとって、函館五稜郭病院の誠実で思いやり溢れる主治医と看護士さん達の看取りと見送りは、確かな光でした。今でも思い出す度に感謝で涙が出ます。お医者様や看護士さんの姿が患者だけでなく残された家族の心を癒やすのです…医療に携わる方々のために祈っていきます。

  2. いつも拝見させていただいています。また研究会等では先生のユニークなウィットに富んだご発表を楽しみにしているファンの一人です。いつもはブログを覗くばかりで変態のようですが今回ばかりは日頃同じように感じているところがありましたので、とはいえ実名だと患者さんや県内の先生方にバレバレなので申し訳ございませんが、匿名でお願いします。(と言いつつ、ばれると思いますが。)
    看取りに関する意見交換会というものがあったことに驚きました。意見交換なのか、所信表明なのかは存じませんが、昨今は医療安全などが大変うるさく、少しのことでも投書があるとすぐに演題として取り上げ、当院ではこんな風に話し合って対策を練っていますというために会議が開かれますよね。
    それはさておき、昨今DPCなどの関係で入院日数はかなり減らされました。たとえ患者さんがつらかろうと近隣の先生(あまり乳がんについて知識のない?)と連絡を取って最後の最期までなるべく入院せずに自科外来や在宅で診てもらう時代になってしまいました。末期の入院とは症状の改善はもちろんですが、患者さん本人や家族の死の受け入れのための時間があったように感じます。最初の診察から初期治療、再発の受け入れ、それに引き続くつらかったであろう化学療法などの集学的治療。すべてがあってこの最期の時間を受け入れることになります。患者さんには常に悔いのないよう、失礼のないように接してきたつもりですが、限られた診察時間の中で医師として伝えきれなかったこと、逆にご本人にとってはつらかったこと、もっと言いたかったことがあったと思うのです。患者さんと一緒に過ごしてきた長い時間を走馬灯のように思い出しつつ、ご本人の今までの頑張りに敬服し、ご家族に時間が足りなかったことをお詫びしたり、もっとできたことがあったのではないかと反省しつつ、看取りを行うように常に心がけています。
    私の勤めている病院では教育も担っています。看取りは昔に比べると大変厳かになりました。研修医の先生や若手は救命センターで教育を受けるのでしょうか?しっかりとした手順で看取るようになりました。しかし看取りとは先生のおっしゃるようにただの儀式ではないと思うのです。前述のような心遣いを研修医や医師に成りたての彼らに直接口に出しては教えません。先生の言われるように先輩の背中を見て育ってきましたし、これからもそうであって欲しいからです。しかし現実は厳しく、外科をラウンドすることすら嫌がる連中は研修を終えてすぐから、50を過ぎた先輩にさえ当直回数は平等であるべきと訴え、自分の患者ですら5時を過ぎたら当直任せです。看取りは厳粛なものなんてこれっぽっちも感じていません。5年ほど前に心電図が延びてきた時に“いい塩梅に仕上がりました。”と言ってきた後輩には怒鳴ったことがあります。
    消化器外科に属しながら乳腺の診療を行っている僕は自分の患者さんのほとんどをお見送りしてきましたが、昨今は”お前のように夜中に看取りに来たり、救急外来に呼ばれるとすぐ来るような自分ですべてを抱えてしまう医師がいると周りの医師が休みづらくなる”と院長に呼びつけられて苦情まで出る始末です。休みがなかったり、急に呼び出されるのは医師という職業を選んだ以上仕方ない、当たり前のことだと思うのですが。
    僕はきっとこれからもぶれることなく、今まで通りに患者さんに接していくと思います。駅で道を譲らず直進してくる通行者と一緒で世の中はどんどん淡白に、疎になっていくように感じます。先生の背中を直接見ることはできませんが、これからもその背中を追いかけて診療に励んでいきたいと思っています。

  3. 渡辺先生、先生の見取りのお考え確かにそうだと思います。、とくに(2)業務というよりは医師として患者、家族にかかわった人間としての気持ちの表現でもある、(3)先輩医師の行動をみて学び、先輩医師から伝承された技術も活用するのがよいなどは、看護師も同じだと思います。見送りの方法はだいぶ前と変わってきました。たとえば手を組まない、白い布を顔にかけないなどです。でもやはり、見取り、見送る気持ちは何ら以前と変わるものではないと思います。人としてどうあるべきかを考えていけたらと思います。

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