今なら、気管切開は外科医に依頼するのがふつうだけど、あの頃は、こいずみオーベンと、駆け出し研修医の私のふたりで、病棟で行いました。前の日に図書館で手技手順を読んで頭のなかで繰り返しシミュレートしておいたけれど、まさか、「先生、やれるよね、やってよ」とこいずみオーベンは後ろで見ていてくれる、という状況は意外でした。局所麻酔もうまくできて、切開もすんなりできました。こいずみオーベンは「せんせい、うまいなー、やるねー」と、褒められて、おだてられたのでした。
オンコロジストの生い立ち(6)
すぐに病棟に駆けつけAMBU BAGで呼吸を補助すると息を吹き返し、また、「わしはな・・」と説教を始めます。落ち着いたところで、動脈血採血を行うのも研修医の仕事。酸素を吸わないとこのじいさんの動脈血酸素分圧は30 mmHg位に下がる。普通は90とか100とかある値が、です。教授回診では、現状と解決策を報告しなくてはいけないので、いろいろと調べると、気管切開をして、いつでも呼吸補助ができるようにすることが必要のようで、そのことをこいずみオーベン相談したら、そーだねーとのことで、教授回診でそう話すと、教授も、そうですね、やってくださいということでありました。
オンコロジストの生い立ち(5)
じいさんは、酸素を吸いながら新聞を読んでおり、研修医の私とオーベンのこいずみ先生が朝、回診すると「わしはな、若いころからな・・・」と、肩で息をしながら苦しそうに人生訓を話してくれました。ある日の午後、じいさんが、酸素を吸いながら、ベッドで気を失っていると、研修医の私がインターホンで呼ばれました。酸素を吸っていると息苦しいという感覚がなくなってしまい呼吸をしなくなり、二酸化炭素が血液中に貯まってしまって、そのまま死んでしまう「CO2ナルコーシス」という状態です。
オンコロジストの生い立ち(4)
呼吸器、つまり肺の病気を専門とする診療科でしたから、肺気腫、今で言うCOPD:慢性閉塞性肺疾患の患者も入院していました。夏休みは2週間あって、交代でとることができました。その間は、同期の進入医局員が休んでいる間、別のオーベンの指導をうけ、また、患者も増えます。その時に担当したCOLDの70才すぎの男性、肺炎を起こして死にそうになり入院、少し良くなると「ワシは家に帰る」と勝手に退院し、また肺炎で入院、こいずみ先生がオーベンとして指導してくれましたが、夏休みの間だけだから、と毎日の回診は、がんこなじいさんの人生訓を我慢して聞けばいいから、ということでした。
オンコロジストの生い立ち(3)
当時は、がんの患者にがんとは言わない、つまり病名告知をしない時代でした。肺の扁平上皮癌の場合は「肺アスペルギルス症です」といって、「肺にかびがはえた」と言いました。抗がん剤を「かびを抑える強い薬」と言うのです。この一連のうそのつき方をオーベンに教えてもらい、うまく言うように何度も練習しました。夕方、オーベンと私、相手は患者だけ、家族も看護婦もいない暗くなった外来でのムンテラ。緊張して汗(^0^;)びっしょり。当時はこんな絵文字はありませんでした。終わったあとで「おまえ、うまいなあ」とつねた先生に褒められました。というより、おだてられたのを今でも覚えています。
オンコロジストの生い立ち(2)
入局して最初の半年は大学病院の病棟で、10年ぐらい先輩が、医師としての技術や心構え、患者さんとの接し方など、何から何まで指導してくれます。この指導者をオーベンと呼びます。ドイツ語で上を意味する「Obere」に由来する「適当語」です。私のオーベンのつねた先生はおおらかないい人でした。また、どんな状況でも褒めてくれました。はじめて、肺がんの患者に治療のムンテラをした時のことです。ムンテラとはドイツ語で「口」を意味する「Munt」と英語の治療を意味する「Therapy」をくっつけたムントテラピーの短縮型、これも「適当語」です。
オンコロジストの生い立ち(1)
がんになる人は、二人に一人という時代、がんは特別な病気ではありません。
まだ、がんが特別な病気と考えられていた時代に私はがん治療を専門とする腫瘍内科になりました。1980年、大学を卒業して肺がんの治療、検査、診断に興味をもったので呼吸器内科に入局しました。入局というのも訳の分からない制度ですが、相撲部屋に入門するようなもので、理不尽さも同じようなものです。
浜松オンコロジーフォーラムのご案内
4月21日に開催する第22回浜松オンコロジーフォーラム 今回は、私と 國頭英夫先生が演者です。ともに「やや社会派的」ネタ、今日(こんにち)のがん医療の問題点の指摘、改善策の提言になっています。参加希望の方は添付の案内状のように、お申し込みください。主催はニュートラルなNPO法人ですので、どんなお立場の方でも講演の部、懇親の部にご参加頂き、社会派的問題について、いろいろと意見交換をしようではあーりませんか。
講演内容
高機能がん診療所のすすめ
2001年に提唱されたがん診療拠点病院は今や401病院が指定されている。その理念は質の高いがん医療、特に薬物療法の普及であった。しかし未だに多くの患者に不便を強いる状況は改善していない。一方、分子標的薬剤数の爆発的増加、副作用対策の進歩により内服治療や外来化学療法といった入院不要のがん治療が標準となった現在、チーム医療を分断する院外調剤薬局のあり方に様々な問題が露呈している。この間、がん薬物療法の担い手である腫瘍内科医の育成が進み、40歳台を迎える医師が自らの将来を模索する時期に来ている。同時にがん診療に強い関心を持つ薬剤師も増えている。私は2005年「街角がん診療」を目指し50歳で診療所を継承、外来薬物療法、がん患者の包括的内科診療、介護との連携を基盤とした終末期医療を実践し手応えを感じている。その経験からがん診療拠点病院では限界に達しているがん診療の今後のあり方として、がん患者を対象とした全人的医療を提供する高機能がん診療所を提案したい。
沈みゆく船の上で想うこと
医療費は爆発的に増加し、国家財政そのものが危機に瀕している。原因は医療の高度化(=医学の進歩)と人口の高齢化であり、誰のせいでもなく、誰にも止められない。「急性期病院」は当該疾患もしくは病態の治療に専念し、「さしあたりやることがなくなった」ら慢性施設へ転院させる。慢性施設は、「急変」したら急性期病院に戻す。我々はみな、「人間はみな、死ぬのだ」という事実を忘れているかのようだ。癌治療も例外ではない。そこにあるエンドポイントは、overall survivalのみである。その過程でかかる莫大な費用は、すべて次の世代に先送りされる。医療者はコストのことなんか、全く考えない。「人命は地球より重い」からである。政治家は、ひたすら逃げる。票を失うのが怖いからである。医学生は、このようなことに関心がない。「試験に出ない」からである。日本経済は金が底をつき、日本医療は志を見失い、滅亡は近い。希望はあるのか。一つだけ残っている。

誰も責められないね
「新専門医制度の下で地方から医師がいなくなる 特に内科医、外科医は、東京、神奈川、愛知、大阪、福岡の5大都市圏に集中!!」が問題となっています。具体的には内科医は秋田県、福井県、香川県、徳島県、鳥取県、山口県、高知県、宮崎県ではたった10数人、青森県、群馬県、山形県、福井県、山梨県、奈良県、島根県、山口県、徳島県、愛媛県、香川県、高知県、佐賀県、宮崎県などでは外科医は5人以下、だそうで、美容皮膚科、湘南美容外科のようなどうでもいいようなところに「有為な」人材が流れてしまう、ということです。その原因が新しく発足した「日本専門医機構」の失策、制度改悪、ちょんぼ・・と責められています。
しかし、そもそも、日本の人口構成自体が大都市への人口集中、地方の人口激減のトレンドであること、新専門医制度導入の背景に医局離れを阻止するもくろみから「大学病院での研修」に力点を置いたこと、から、1970年代から80年代に新設された「駅弁大学」と言われる非力な大学・医学部しかない県には、専攻医はとどまらない、希望しないのではないでしょうか。我が静岡県も東海道の東西往来の真ん中にあって、新幹線の駅は一番多いけど「のぞみ」は一本も停まらず、本来、文化的に「人はとどまらず」という土地柄の東京・神奈川と愛知の狭間において、弱小・非力な浜松医大しかなく、県内に留まる専攻医が少ないという現実は、当然の結末であり、今さら激論したって不満を言ったってあとの祭りでありましょう。とりあえず、大都市の大学に集中した専攻医くん、専攻医ちゃんたちが今後「医局人事」で地方に配属されるよう、地方の病院は、十分な給料を用意して待っているしかないでしょうね。それとも、だぶつく女医を射止めるイケメン男性(医師に限る必要はない、医師と結婚する女医は返って不幸になる、という話は別の機会に)に活躍してもらうというのもいいかもしれません。
研修薬剤師・研修医師との巡り会い
研修医師Aくんは先週までで、今週から研修は、研修医師Bくんひとりです。研修薬剤師くんは、彼ら2人と一緒の時期で、ちょうどいいときに浜松で勉強できましたね。研修薬剤師くんが浜松で魅せた様々な技(調剤の技術、服薬指導の取り組みなど)は、今でも「すばらしかったね」と当院薬剤師や看護師たちの間で話題になります。それだけ、研修薬剤師くんは、良い経験を積み重ねてきているのですよ。国立がん研究センター東病院のレジデントとして学んだことは、それほどの大きいものがあるのですね。また、短い期間でしたけど浜松でもいろいろ勉強できたと思います。その経験もまた、研修薬剤師くんをさらにグレードアップできたのではないかと思います。研修医師Aくんと研修医師Bくんとともに先週の土曜日昼に、オンコロジーセンターの近くのイタリアンレストランで、パスタ、ピザ、ティラミス・・・ 私はビール、を楽しみました。彼らも「研修薬剤師さん、薬剤倉庫で働くのはもったいないですよね」と言っていました。確かにそうかも知れませんが、薬剤倉庫での払い出しとかも、きちんと、間違いなく、しかも効率的に行う、だれからも信頼される方法で、あるいは今までの方法をさらにグレードアップして、よいもの、効率のよい方法を確立して残す、ということも、薬剤倉庫での仕事としては大変貴重だと思います。しかし、ここで大きな問題があります。杏の里薬剤室のように「おつぼね支配の硬直化した組織」だと、かえって、そのような効率化、工夫、は、「余分なこと」、「私たちの方法を勝手に変えてもらってはこまる。元通りもどしなさい」ということになってしまうのです。ところが、浜松オンコロジーセンターでは「いいね、いいね、いいね」となり、すぐにその改善が取り入れられるのです。事実、研修薬剤師くんが浜松にいた数日間で、みせた「混注のわざ」は、当院でさっそく取り入れました。このように、「よいものは評価してすぐに取り入れる」ことが大切で、「今までやっていたから変えないでください」という発想は組織を硬直化させ、時代遅れ、セピア色の杏の里、としてしまいます。待合室に貼ってあるセピア色の昔の写真を見るに度に、そんなことを考えていました。
研修薬剤師くんが、「目から鱗が出た」と言っていたとおり、新しいことに常に敏感であり、よいものはどんどん取り入れる、という姿勢が大切なのです。ちなみに、目から鱗が出る、のではなく、目から鱗が落ちる、が正解です。その出展を調べてみて下さい。浜松という土地柄は、徳川家康が「レジデント」の時期をすごしたことから「出世の街」と呼ばれています。研修薬剤師B子さんも、いちど、浜松にお越し下さい。そして、研修薬剤師B子さんの、在宅医療とか、地域医療にかける情熱、夢、展望を聞かせて下さい。うなぎ、餃子、かつおのさしみ、しらす卵かけごはん、イタリアンなどごちそうしますよ、いいね、いいね、いいね・・・
